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江戸東京たてもの園

住所
東京都小金井市桜町3-7-1
開園時間
🕐9:30~16:30
月曜休園日
電話番号
📞042-388-3300
公式サイト
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目次


奄美の高倉
  • 建築年…江戸時代末期
  • 旧所在地…鹿児島県奄美大島宇検村
  • 寄贈者…日本民族学会
奄美大島にあった高床式倉庫。
屋根部分が穀物用倉庫で、倉の中へ梯子をかけて出入りする。
建物本体を柱で地面より高く上げているのは、湿気や鼠から穀物を守る為。
4本の柱はアカモモ(奄美大島での俗称。一般にはツバキ科モッコク属)という堅い木材。
この高倉は1960年、東京都保谷町(現西東京市)にあった「民族学博物館」に移築展示された。
この民族学博物館は民族学者で実業家の渋沢敬三(1896~1963)らが設立したアチックミュージアムを発展させた財団法人日本民族学会の研究施設だった。
同博物館閉館に伴い、江戸東京たてもの園の前身である武蔵野郷土館に再移築された。
高倉は、高温多湿地域に発達したもので、日本では南西諸島ほか東京都の八丈島などに見られる。

吉野家(農家)
  • 建築年…江戸時代後期
  • 旧所在地…三鷹市野崎二丁目
  • 寄贈者…吉野悦時氏
三鷹市野崎は江戸時代後期、幕府及び尾張徳川家の鷹場になっており、江戸時代中頃から開発が進められた地域。
この建物には付け書院を備えた奥座敷が設けられ、部屋数も多く上層の農家だった。
柱や小屋組には創建当初のものが残っているが、縁周りや建具は新しいものに変わっている。
吉野家は、武蔵野郷土館時代の1963年に移築、復元された。
建物内部では1950年代の農家の生活を再現。

綱島家(農家)
  • 建築年…江戸時代中期
  • 旧所在地…世田谷区岡本三丁目
  • 寄贈者…綱島磨智子氏
綱島家は多摩川を臨む大地上にあり、穀物や野菜を作っていた。
1742年頃までには、既に岡本に住んでいた。
建物は代々引き継がれ、最後は10代目に当たる綱島次男氏の住宅として使用されていた。
この建物は、土間とそこに接する板の間を持ち、一般に広間型と呼ばれる間取りの民家。
大黒柱は、長方形の断面を持つ五平柱が使われており、土間との境に他の柱と一間おきに並んでいる。
また板の間には、床間の前身とも言われるオシイタという棚がつき、南側には二間半の長さを二つに割った柱間で柱が建てられている。
家の正面にあるシシマドは格子窓となっており、外部からの獣の侵入を防ぐつつ、光を採り入れ、換気をする為のものでもある。
また、屋根の軒も低く閉鎖的な造りとなっている。
このように綱島家は古い時代に建てられた民家の特徴をよく残している。

八王子千人同心組頭の家
  • 建築年…江戸時代後期
  • 旧所在地…八王子追分町
  • 寄贈者…溝呂木雄蔵氏
八王子千人同心は、八王子で甲斐との国境を警備する為に配備された武士団。
関ヶ原の戦い時1,000人の規模だった為その名が付いた。
武士とはいえ、平時は農耕を営む半農半士の形態。
1893年に日野の大火で家を焼失した溝呂木家が、八王子にあった千人同心の子孫である塩野家から建物を買い取り、その部材を転用して日野市に農家を建てた。
塩野家は千人同心の組頭を務めた家柄で、先祖には『桑都(そうと)日記』の著者・塩野適斎がいる。
こと建物は、溝呂木家の各部材に残る痕跡から、江戸時代末期の千人同心の住んでいた頃に復元。

常盤台写真場
  • 建築年…1937年
  • 旧所在地…板橋区常盤台一丁目
  • 寄贈者…田中藤二郎氏
この写真場は、戦前からの代表的な郊外住宅地、常盤台に建てられた。
同地は1935年東武東上線の武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)開設を契機に分譲住宅地として開発された。
内務省都市計画課の「健康住宅地」プランにより、編み目状の道路網、公園、電気、ガス、水道、下水道などの設備を整えた。
常盤台写真場は分譲当初の1937年に建てられた。
2階写場北側の勾配天井や壁面には全面にガラス窓が嵌め込まれ、照明装置の無かった頃の写真館の特徴をよく表している。
建物内部は、建てられた当初の様子を再現。

三井八郎右衛門邸
  • 建築年…主屋1952年、土蔵1874年
  • 旧所在地…港区西麻布三丁目
  • 寄贈者…三井高寛氏、三井公乗氏、三井之乗氏、淺野久子氏
日本近代史に三井財閥として名を残した三井同族十一家の総領家、三井八郎右衛門高公氏の第二次世界大戦後の住宅。
今井町(現・港区)にあった邸宅が戦災で焼けた為、財閥解体を経た1952年に麻布笄町(現・港区西麻布)に本邸を建築して移住。
この本邸は日本各地にあった三井家に関連する施設より部材などを集めて建てれた。
1階の書院の二間は1897年頃に完成した京都油小路三井邸の奥書院の一部であり、本邸の格調の高さを表している。
邸の南東隅には大磯の別邸にあった望海床が、西側には1874年の建築を示す墨書がある土蔵が移築されている。
邸内の各部屋には明治期の円山四条派の画家が描いた襖絵などが嵌め込まれる他、細部の意匠に至るまで気が配られた建物である。
また庭園には今井町より景石が移され、邸に風格を添えている。
往時の三井邸を偲ばせる建物である。

小出邸
  • 建築年…1925年
  • 旧所在地…文京区西片二丁目
  • 寄贈者…大山みどり氏、小出剛史氏
外観は、瓦葺き・急勾配な宝形屋根と水平に張り出した軒に特徴がある。
なた、建物は当初から敷地の境界線に平行ではなく、敷地に対して20度振れて配置されている。
内部は、水回り、建具の改築以外に大規模な増改築は行われず、ほぼ創建当時の姿を留めている。
特に応接間の家具は建物に合わせて設計されている。
小出邸は、施主である小出收(おさむ)氏(1865~1945)から後も、家族によって大切に住み続けられ、1996年まで使われていた。
この住宅は、大正から昭和にわたって活躍した建築家堀口捨己(すてみ)(1895~1984)の30歳の作品であり、1921年に開催された平和記念東京博覧会の作品を除くと、本作品がデビュー作になる。

デ・ラランデ邸
La maison de Goerg de Lalande
  • 建築年…1910年
  • 旧所在地…東京都新宿区信濃町
  • 寄贈者…三島食品工業株式会社
1階部分は明治時代の気象学者・物理学者である北尾次郎が自邸として設計した木造平屋建て・瓦葺き・寄棟屋敷・下見板張りの洋館。
1910年頃、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより、木造3階建て住宅として増築された。
その際、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されている。
スレート葺きのギャンブレル屋根と、下見板張りの外壁が特徴。
デ・ラランデは、この住宅で妻と4女、1男の7人家族で生活していたが、1914年に41歳で亡くなった。
その後、この住宅の居住者は何度か変わったが、1956年から、乳酸菌飲料カルピスの発明者として知られる三島海雲氏が住んでいた。
海雲氏の死後は、三島食品工業株式会社の事務所として、1999年まで使用されていた。
建物は、デ・ラランデによる大規模な増築が行われた頃の姿に復元し、室内は残された古写真を基にデ・ラランデが住んでいた大正時代初期頃を想定して復元している。

田園調布の家(大川邸)
  • 建築年…1925年
  • 旧所在地…大田区田園調布四丁目
  • 寄贈者…須藤満氏
この建物は、家族の為の居間を中心として、その周りに食堂・寝室・書斎が配置された「居間中心型」と呼ばれる間取りに特徴がある。
田園調布は、渋沢栄一によって設立された「田園都市株式会社」が開発した郊外住宅地の一つ。
関東大震災から1ヶ月後の1923年10月より分譲が開始された。
田園調布の家(大川邸)は、所有者が数回変わったが、1993年まで使われていた。
建物は創建時の姿に復元し、室内は大正末期から昭和初期の生活の様子を再現。

前川國男邸
  • 建築年…1942年
  • 旧所在地…品川区上大崎三丁目
  • 寄贈者…前川紘一氏・前川悠二氏
この建物は前川國男建築事務所によって設計され、戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工。
外観は切妻屋根の和風、内部は吹き抜けの居間(サロン)を中心に寝室・書斎を配したシンプルな間取り。
前川國男(1905~86)は、東京文化会館(1961)、東京都美術館(1975)をはじめ、公共建築を中心に多くの作品を残し、日本の近代建築の発展に大きく貢献した。
この住宅は、1973年に解体され、部材として保管されていた。
復元工事の際、外観は1956年に改修される前の姿に戻し、内部は昭和30年代(1955年)の様子を再現。

旧自証院霊屋
  • 建築年…1652年
  • 旧所在地…新宿区富久町
  • 寄贈者…西武鉄道株式会社
旧自証院霊屋は江戸幕府三代将軍家光の側室であったお振の方を祀った霊廟で、1652年に市ヶ谷の自証寺の中に建てられた。
禅宗様と和様の折衷様式で建築され、随所に極彩色の木彫や細やかな金具が施された荘厳な建造物である。
施主はお振の方の娘で、尾張二代藩主徳川光友の正室出会った千代姫である。
建築には幕府作事方棟梁甲良(こうら)氏が関わっていた。
甲良家は江戸時代の有力な大工で、江戸城や日光東照宮の他、江戸時代を代表する建築に携わっている。
徳川将軍家を代表とした霊廟の多くは戦災等で失われた。
その為に旧自証院霊廟屋は貴重な文化財となっており、1960年に東京都指定有形文化財(建造物)に指定されている。

高橋是清邸
  • 建築年…1902年
  • 旧所在地…港区赤坂七丁目
経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高橋是清の住まいの主屋部分。
是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地6,600㎡を購入し、1902年に屋敷を建てた。
総栂普請の主屋は、複雑な屋根構成を持っており、また当時としては高価な硝子障子を縁周りに多量に使用。
赤坂にあった頃は、主屋の他、3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
1936年、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒れた(2.26事件)。
敷地と屋敷は間も無く東京市に寄付され、記念公園となった。
是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。

会水庵
  • 建築年…大正期頃
  • 旧所在地…杉並区西荻北五丁目
  • 寄贈者…宇野克彦氏
会水庵は、宗徧流の茶人・山岸宗住(会水)が施主となり、新潟県長岡市に建てた茶室。
1927年山岸家の東京移住に伴い吉祥寺に移築し、1957年劇作家の宇野信夫に買い取られ、西荻に移された。
山岸会水は自ら茶碗や花入などを作り、また聴雪という名で茶掛の絵を描き、茶庭(露地)の設計も行った。
この茶室は三畳台目と勝手からなり、屋根は桟瓦葺で庇は銅板葺、露地には腰掛待合と蹲踞、灯籠を配している。
建物は、もともと母屋に接続したいたので、西川家別邸に付ける形とし、可能な限り吉祥寺時代に戻して復元された。

西川家別邸
  • 建築年…1922年
  • 旧所在地…昭島市中神町二丁目
  • 寄贈者…西川知恵子氏
西川家別邸は、西川伊左衛門により、接客用兼隠居所として建てられた別邸。
西川伊左衛門は1893年、現在の昭島市中神で北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家。
江戸時代から盛んだった多摩地域の養蚕・製糸業は、大正期から昭和初期にかけて、技術改良や生糸価格の上昇に伴い最盛期を迎えた。
この建物には、まさにその頃を代表するように、良く吟味された部材が使われている。
接客用の部屋と日常使う部屋とを左右に分けた間取りは、当時の住宅建築の主流をなした造りである。
建物は、高橋是清邸の離れの位置に、建築当初の姿で復元。

伊達家の門
  • 建築年…大正期
  • 旧所在地…港区白金二丁目
  • 寄贈者…伊達宗禮氏
伊達家の門は、旧宇和島藩伊達家が明治以降華族に列せられ、東京に移住する為新たに建てた屋敷の表門である。
大正時代に建てられたもので、総欅造り。
「起(む)くり屋根」を持つ片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしている。
門柱の上に横方向に架けられた材(冠木)には、宇和島藩伊達家の家紋が施されている。
宇和島藩は現在の愛媛県西部に位置し、仙台藩主伊達政宗の子秀宗を祖とする外様大名だった。
また、幕末の宇和島藩主は勤王家として有名だった。
伊達家の門は武蔵野郷土館時代の1966年に移築、復元。

植村邸
  • 建築年…1927年
  • 旧所在地…中央区新富二丁目
  • 寄贈者…長谷川浩一氏
全体を銅板で覆われたその姿は、関東大震災の後に多く建てられた看板建築の特徴を良く表している。
この建物は全体的には洋風であるが、2階に和風の高欄が取り付けられて和洋折衷のデザインとなっている。
また、外観は装飾的に造られ、特に2階の窓の上にあるアーチ部分の装飾は非常に手が込んでいる。
装飾の中央には、ローマ字の「U」と「S」を重ねた模様が見られるが、これはこの建物を建てた植村三郎氏のイニシャルか「植村商店」を表すものと思われる。
この建物には、特に1階部分の銅板に多数の傷が残っている。
これは戦時中の空襲による爆弾等の破片が突き刺さってできたもので、当時の様子を今に伝える建物としても貴重。
看板建築とは
建物の前面が軒の出ない平坦な平坦な造りになっているのが大きな特徴で、そのほとんどが木造の商店建築。
関東大震災以前にも存在していたが、本格的に建てられるのは震災後。
植村邸は装飾豊かな銅板をふんだんに用いた看板建築で、屋根にはマンサード屋根が用いられている。
設計は施主の植村氏本人が手掛けたもので、そのデザインは洋風を基調としているが、2階には高欄を設けるなど部分的に和風の味付けがされている。
間取りはほぼ正方形で、看板建築では奥に配置されることの多い台所や便所などが、植村邸では出入口付近に置かれているのも大きな特養。
看板建築の誕生
1923年の関東大震災は、その揺れの大きさもさることながら、揺れの後発生した火災によって、大きな被害を東京都その周辺部にもたらした。
江戸時代以降、東京の街並みを形作ってきた建物の多くが、この時焼失した。
土蔵造りは、耐火性はあっても揺れには弱く、出桁造りは火には全く歯が立たない。
この為、東京の街はほぼ壊滅状態となった。
震災後、政府は直ちに復興事業に着手するが、それは元の東京の姿に戻すのではなく、新しい東京を作ることを基本としていた。
その為、被害を受けた地域では区画整理が行われることとなり、その内容が確定するまでの間、人々は仮設の建物で過ごさねばならなかった。
かつて伝統的な商店が軒を連ねていた場所には、新たに仮設の商店が建てられたが、その中に、非常に表情豊かな商店が誕生した。
この表情豊かな商店に共通していることは、土蔵造りや出桁造りのような軒の出がなくなり、建物の前面(ファサード)が平坦な造りになっていることである。
ファサードを平坦にするのは洋風の商店などに見られる手法であり、仮設とはいえ、伝統的な店構え以外の手法が用いられることになった。
その後、これらの多くはコンクリート造の大規模商店へと生まれ変わるが、ファサードを平坦にする手法は、商店建築の一つの方法として用いられるようになった。
このようにして生まれたのが看板建築。
なお、伝統的な手法である土蔵造りはほとんど建てられなくなるが、出桁造りは震災後も建てられた。
看板建築の特徴
  1. 木造の建物で、ファサードは平坦。
  2. 外観上3階建てに見えるものが多いが、そのほとんどが2階建てに屋根裏を設けた造り。
  3. 屋根には、屋根裏を設けるのに有効なマンサード屋根(腰折れ屋根)を用いることが多い。
  4. ファサードは出桁造りのように木造のままにするのではなく、銅板やタイル、スレートを貼ったり、モルタルで仕上げる。これは防火対策を図ったものであるが、その一方で、建物を表情豊かに飾り立てる手段でもある。
  5. 外観は洋風を基調として自由にデザインされるが、建物内部、特に居住空間については和風の伝統的な造りとするのがほとんど。
  6. 間取りは間口が狭く、奥行きのある建物が多い。そして、そのほとんどが商店であることから、1階入ってすぐが店舗となっており、その奥と2階以上が居住空間となっている。
このような看板建築の設計は、その地域の大工の棟梁や施主との付き合いがあった画家、あるいは施主自らが手掛けるという点も特徴の一つ。

丸二商店(荒物屋)
  • 建築年…昭和初期
  • 旧所在地…千代田区神田神保町三丁目
  • 協力者…池田節氏(旧所有者)
  • 寄贈者…学校法人専修大学
この店舗兼用住宅は、関東大震災後に多く建てられた看板建築様式。
前面部を銅板で覆われた外観は、装飾的な屋根上端部の柱の形やパラペット(建物の屋上に設けられた低い手すり壁)などにより特徴的なデザインとなっている。
また銅板の意匠は青海波や一文字、綱代などの紋様を用いているなど趣向を凝らしたものである。
この建物では、創建時から昭和20年中頃まで荒物屋を営んでいた。
その為内部の展示は台所用品を中心とした日用雑貨が並ぶ、最も商売が盛んであった昭和10年代の荒物屋を再現。
また裏手には、丸二商店に隣接していた創建年を同じくする長屋を復元し、それとともに路地の情景も再現。

大和屋本店(乾物屋)
  • 建築年…1928年
  • 旧所在地…港区白金台四丁目
  • 寄贈者…土井岩一氏
この木造3階建ての商店の軒下は何本もの腕木が壁に取り付き出桁と呼ばれる長い横材を支える出桁造り形式を持つ一方、間口に対して背が非常に高く、2階のバルコニーや2階窓下に銅板を用いるなど、看板建築の特徴を備えたユニークな建物。
大和屋本店は創建当初から乾物類の販売を手掛け、海産物の仕入れが困難になった昭和10年代後半以降はお茶と海苔などを販売していた。
復元にあたり店舗部分は鰹節や昆布、豆、スルメ、海苔、鶏卵などを販売する戦前の乾物屋の様子を再現。
大和屋本店では煙草も販売しており、店舗前面に煙草屋の造作が取り付けられていた。
現在取り付けられている煙草屋の造作は昭和20年代のもので、青梅市の武田清氏より寄贈。

花市生花店
  • 建築年…1927年
  • 旧所在地…千代田区神田淡路町一丁目
  • 寄贈者…青山総業株式会社
この建物は前面を立て板状にし、銅板を貼って防火対策を図った看板建築。
銅板は花屋らしくデザインされ、2階の窓の下には、梅や桜、菊、牡丹などの花が飾られ、3階には蝶と菊が対角線上に配置されている。
これらの銅板による装飾は、下絵を描いた木を大工が彫り、その上に銅板を乗せて木槌などを使って打ち出すという手法で作られたもので、職人の技が活きている。
花市生花店は、この建物で1991年まで営業していた。
建物は創建時の姿に復元し、店内は昭和30年代の情景を再現。

武居三省堂(文具店)
  • 建築年…1927年
  • 旧所在地…千代田区神田須田町一丁目
  • 寄贈者…三井不動産株式会社
当初は、筆・墨・硯の書道用品の卸を中心に商売していたが、のちに絵筆や文具も扱う小売店に変わった。
店内の壁には200本近い筆が入る桐箱が整然と納められている。
また、店の下は地下室になっており、そこで商品の荷解きや、荷造りを行った。
武居三省堂は、震災後に建てられた看板建築で、茶色のタイルを全面に貼った表面と、屋根の勾配が途中で旧になったギャンブレル屋根(腰折れ屋根、建築当時は「マンサード屋根」と呼ばれていた)にその特徴を見ることができる。
店内は昭和30年代の様子を再現。

川野商店(和傘問屋)
  • 建築年…1926年
  • 旧所在地…江戸川区南小岩八丁目
  • 寄贈者…川野作次郎氏・久良枝氏
出桁造りの建物。
重厚な屋根の造りや江戸以来の町屋の正統的特質を継承する格子戸などの造作にこの建物の特徴を見ることができる。
小岩は、東京の傘の産地として当時有名であって、川野商店では、職人を抱え傘を生産し、また完成品の傘を仕入れ、問屋仲間や小売店へ卸す仕事をしていた。
川野商店で傘の生産を行っていたのは、明治末から大正5年頃までで、それ以降昭和20年頃までは専ら問屋としての商いを行っていた。
建物内部では、昭和5年当時の問屋としての店先の様子を再現し、また蔵へと続く渡り廊下では傘の歴史や製作工程などについて解説。

小寺醤油店
  • 建築年…1933年
  • 旧所在地…港区白金五丁目
  • 寄贈者…小寺恭夫氏
大正期から酒屋として、味噌や醤油を販売。
看板で醤油店と掲げているのは、創業者が醤油醸造の蔵元で修行した為。
当時、酒屋で味噌や醤油を売ることは珍しくなかった。
1階、2階とも庇の下には、張り出した腕木とその上に桁が乗っている。
これを、出桁造りという。
隣の蔵は、袖蔵といい、在庫の商品や生活用具を収納する為。
建物は建築当初を復元。
店舗部分は昭和30年代後半の柄杓と漏斗による量り売りの時代を、住居部分は1990年の解体時にそのままの状態を再現。
醤油の種類と産地
日本で作られる醤油には、濃口醤油、淡口醤油、溜醤油の3種類がある。
濃口醤油は、香りの強い日本の代表的な醤油。
大豆と小麦を同量使う。
千葉県を中心に作られ、現在総生産量の83%を占める。
淡口醤油は、色調の薄い醤油で、関西方面で好まれる。
塩分は濃口醤油よりも高い。
現在総生産量の14%を占める。
溜醤油は、名古屋や岐阜を中心に発達した濃厚な醤油で、最も古い醸造方法をとるもの。
多量の大豆と少量の小麦、食塩水で作る色の濃いコクのある醤油。
自家製の醤油は全国的に生産されていたが、商品としての醤油は、江戸時代半ばまで京都、和歌山、兵庫が主要な産地だった。
江戸時代後期になると、各地で醤油の生産は盛んになり、現在の千葉県野田市や銚子市は、大規模な産地として発展。
現在でも、千葉県と兵庫県が全生産量の半分以上を占めている。
醤油を作る
醤油は、
  1. 蒸した大豆に炒った小麦と麹菌を混ぜ合わせて醤油麹を作る。
  2. 醤油麹に食塩水を混ぜ合わせて醪を作る。
  3. 醪を発酵、熟成させる。
  4. 醪を絞る
という工程で作られる。
大正時代以降、醤油醸造工場は年々減少傾向にある。
現在、日本の醤油醸造メーカーは2,300社程で、年間1,000,000リットルを製造している。
醤油を使う
醤油は、生活必需品。
原料や製法が異なる醤油は東アジア諸国で広く使われている。
醤油の原形は中国で生まれた醬。
醬は現在の味噌に似たもので、仏教の伝来とともに日本にもたらされた。
室町時代後期、醬を加工精製して醤油が作られるようになった。
江戸時代になると、醤油の消費は全国的に進み、海外にも輸出されるようになった。
醤油の流通と販売
関西方面で生産された醤油は、樽に詰められて、大阪を経由した「下りもの」として船によって運ばれてきた。
江戸時代後期になると、現在の野田市や銚子市から高速船によって運ばれた醤油が江戸での消費のほとんどをまかなうようになった。
明治以降、輸送手段は船から鉄道、車両へと変わっていった。
現在、醤油は瓶やプラスチックボトルに入れて売られている。
しかし、昭和30年代頃までは量を計ってお客様の持参した瓶や徳利に入れて売られていた。
このような売り方を量り売りという。
江戸時代には、天秤棒を担いだ行商によっても売られていた。

万徳旅館
  • 建築年…江戸時代末期〜明治時代初期
  • 旧所在地…青梅市西分町二丁目
  • 寄贈者…浜中康男氏
万徳旅館の構造は木造2回建て、屋根の形は切妻、屋根材は当初は杉皮葺き、一部栃葺きであるが、杉皮の上に波形鉄板を葺く形で復元。
万徳旅館は、明治中期に2階部分を増築し、客室を増やしている。
もとの敷地では、建物の奥に土蔵が付属していた。
また、1940年頃、青梅街道の拡張工事に伴い南に3.6m程の曳き家を行った。
万徳旅館は、内部の造作や、建具周りに大きな改装が少なく、古い状態のままで1993年頃まで営業を続けていた。
建物は、建造当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年頃の様子を復元。
今なお江戸時代の旅籠の面影を留めている貴重な旅館。
与次郎組
江戸時代に考案された和小屋(日本の伝統的な小屋組)の一つで、小規模な民家の主家や土蔵に見られる。
小屋裏を利用する為の工夫の一つ。
棟束(与次郎束)に対して、左右から登り梁をほぞ差、込栓留めとして、大架構空間を形成。
与次郎組の名称は、与次郎が考案した「釣り合い人形」(ヤジロベー)の構造に似ている事が由来。
出桁造り
腕のように張り出した部材の上に垂木(屋根や庇を支える細い角材)を受ける桁が乗っている造りの名称。
元々は、家の軒を深く、また丈夫にする為の工夫だったが、家を立派に見せる為の飾りとして使われるようにもなった。
たてもの園では、仕立屋、小寺醤油店、川野商店などの建物に見られる、日本の伝統的な造り。
杉皮葺き屋根・栃葺き屋根
万徳旅館の屋根は、大部分が杉皮で葺かれた杉皮葺き。
正面の1階庇だけは、栃葺き。
栃葺きとは、1寸(3.3cm)程の厚さ、幅は3~5寸、長さが2尺程度の栃板を何枚か重ねて葺き、縄で綴じ締める葺き方。
今回の工事では、耐久性が高い栗の木を使用。

仕立屋
  • 建築年…1879年
  • 旧所在地…文京区向丘一丁目
  • 寄贈者…小宮義璋氏
この建物は、出桁造りの町屋。
正面の格子や上げ下ろし式の摺上げ戸などに、江戸からの町屋の造りが伺える。
創建時には6畳間の後ろに土蔵が付属していたが、昭和50年代に取り壊された為、部屋部分のみ復元。
また、室内のガス燈は、ランプから電灯に移り変わる途上の明治後期から大正期にかけて一般家庭の一部に普及したものである。
この家は、戦後は八百屋だったが、昭和初期はテーラーが営まれていた。
建物の間取りを創建時の姿に復元したことに合わせて、内部には大正期の仕立屋の仕事場を再現。
この時代の仕立屋は、特に店構えなどはせずに自宅を仕事場としていた。
親方の元に弟子が住み込みで働くのが普通で、ここでは親方と弟子4人の仕事場を再現。

子宝湯
  • 建築年…1929年
  • 旧所在地…足立区千住元町
  • 寄贈者…平岡徳朗氏
建物は施主が出身地の石川県から気に入った職人を連れてきて造らせた。
玄関には神社仏閣を思わせる大型の唐破風が乗っている。
また、玄関の上には、船に乗る七福神の精巧な彫刻が取り付けられている。
男湯側の脱衣場には趣向を凝らした坪庭が付き、浴室部分には大正から昭和にかけて東京の先進的な銭湯が取り入れたと言われるタイル絵が嵌め込まれている。
このように、子宝湯は、東京の銭湯を代表する形式を持ち、贅を尽くした造りとなっている。
建築は建築当初を復元し、内部は昭和30年代の銭湯の様子を再現。
タイル絵
主に男湯と女湯の境にあたる部分に絵が描かれたタイルが嵌め込まれている。
大正から昭和にかけて、東京の先進的な銭湯が取り入れたタイル絵という装飾である。
ほとんどが九谷で焼かれ、現在見ることのできるタイル絵は、多くが昭和30年代までに造られたもの。
山水、鯉、様々な物語をモチーフとしているタイル絵は、ペンキ絵と並んで銭湯をめぐる文化の一つと言える。
ペンキ絵
浴室壁面のブリキ板などにペンキで描かれた画の事。
題材は、風景が多く、その中でも富士山の絵が最も多い。
ペンキ絵は、1912年、神田猿楽町の機械湯で浴室の壁が寂しいことを理由に、画家川越広四郎に描いてもらったことが始まり。
ペンキ絵は東京周辺で多いが、新潟県や岡山県にも見られる。
現在、東京でペンキ絵を描く職人はわずか4人しかいない。

鍵屋
  • 建築年…
  • 旧所在地…
  • 寄贈者…
改装中

天明家(農家)
  • 建築年…江戸時代後期
  • 旧所在地…大田区鵜の木一丁目
  • 寄贈者…天明茂光氏
天明家は、村役人の年寄役を務めた旧家。
ここに移築したのは10,000㎡の広大な敷地内にあった庭園を含む主屋と長屋門、それに飼葉小屋。
正面に千鳥破風を持つことを特徴とする広い主屋には、書院をはじめ、各所で増改築が施されている。
また、長屋門という側面に部屋を持つ門、書院前の枯山水、農作業などに使用された主屋前の広い庭などから、農家としての高い格式が伺える。