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大阪府

大阪府 大阪市
面積 1,900㎢
【46位】
225㎢
人口 8,700,000人
【3位】
2,800,000人

目次


関西国際空港
大阪府大阪市の南西35kmに位置。
1994年9月4日、大阪湾内5kmの埋立地に開港した世界初の完全人工島からなる海上空港。
羽田空港は一部元陸地を含む。
関空 成田 羽田
開港 1994年 1978年 1931年
敷地 1,000ha
10㎢
1,100ha
11㎢
1,500ha
15㎢
旅客数
2019年
28,000,000 44,000,000 84,000,000


大坂と大阪
「大坂」は豊臣秀吉の時代から使われていたが、明治時代初期に「坂」という文字が「土に返る(=死を連想)」とされ、縁起を担いで「阪」に改められた。
現在の行政名や地名には全て「大阪」を使用。
一方、歴史的な建造物や史跡である「大坂城」等では、伝統的な「大坂」という表記が今も使用される事がある。


大阪概要
京都や奈良からも近く、瀬戸内海(la mer Intérieure)の東端に位置している大阪湾が西日本最大の交通の要衝で流通発展。
商人の町(La ville commerçante)
天下の台所(La cuisine du Japon)
第二次大戦後期、日本国内で米が不足し、代用品として小麦粉を食した。
戦後もアメリカから大量に小麦粉が輸入され(On a importé beacoup de farine de blé)、小麦粉料理が広まった。
商人が多い大阪では早くて安くて美味しいお好み焼きが発明。
戦後の食糧危機(la crise alimentaire)時代は、具材もキャベツやネギのみだったが、様々なアレンジが加わり、現在の形になった。
こうして大阪では、お好み焼き、たこ焼き、串カツ等の粉物(La nourriture en poudre)を中心に食文化が栄えた。

日本のおける小麦の生産量
日本国内の小麦生産量は1,000,000tで、内北海道が60%のシェア。
一方で5,000,000tの小麦を輸入しており、内アメリカが50%を占める。
  1. 中国…137,000,000t
  2. インド…100,000,000t
  3. ロシア…76,000,000t
  4. アメリカ…45,000,000t
インスタント麺(les nouilles instantanées)等による日本の小麦粉需要は高い。

江戸時代以降の大阪
江戸幕府は、味方(le seigneur allié)の大名が西国に乏しい事から大阪を直轄地の天領とし、西国監視(surveiller)の為に大阪城再建。
海路に難所が多く海運に不向きな江戸よりも、古くから恵まれた海運の要衝であった大阪に蔵屋敷を置いた。
こうして、日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり「天下の台所」と呼ばれて繁栄し、「元禄文化(1688~1704)」が大阪を中心に花開いた。
人形浄瑠璃発祥。
大坂相撲や上方歌舞伎。
他、庶民の娯楽として上方落語、漫才、吉本新喜劇・松竹喜劇のお笑い文化が栄える。
大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術発達。

大阪の食い倒れ
大阪人は破産するくらい飲食に贅沢をする(Les habitant d'Osaka se ruinent pour la gastronomie.)という文言が生まれる程食に貪欲(Ils sont avide de manger)。
しゃぶしゃぶ、懐石料理、うどんすき、大阪寿司、割烹等の本格的な日本料理の発祥。
たこ焼き、お好み焼き、串カツ等、"粉もん"を中心とした庶民の味まで多様。
昔からの土産物としては岩おこし、昆布があり、きゅうり、大根等の伝統なにわ野菜が見直され、和泉でしかできない水茄子や和泉の玉葱、水菜など野菜の特産もある。
特にねぎは九条ねぎ等の日本の青ねぎの原種であり、最古(奈良時代には既にあった記録が残る)の品種である難波ねぎの一大生産地として戦前まで栄え、難波=ネギと代名詞ともなり、鴨南蛮の語源。
昔からの大阪の味、鱧(はも)、ふぐ、きつねうどん、まむし等がある。
特にふぐは全国消費量の6割が大阪での消費であり、代表的な料理法としては“てっちり”や“てっさ”が挙げられる。

御堂筋
大阪市都心部を南北に縦断する全長4kmの街路。
大阪市のキタの玄関口「梅田」とミナミの玄関口「難波」を結ぶ。
大阪のメインストリートであり、両側に970本のイチョウ植樹。
キタ「梅田」
日本銀行大阪支店 大阪市役所
本願寺津村別院
チャペル(結婚式場)
難波神社 在大阪英国領事館
ホテル日航大阪 大丸心斎橋店
道頓堀橋
ホテルロイヤルクラシック大阪
ミナミ「難波」


黒門市場
卸売(le grossiste)と小売(le détaillant)の機能を兼ね備えた江戸時代後期から続く市場。
千日前から南へ580mの間に、鮮魚、青物、果物、飲食、衣料品等180店舗が軒を連ね、平日は18,000人、年末になると150,000人来訪。
1822~23年、日本橋の圓明寺(えんみょうじ)付近にあった黒い山門のあたりに商人が集まり、堺や紀州から入ってきた魚を売ったのが起源。
1912年の難波火災によって寺と共に焼失する迄は「圓明寺市場」と呼称。
その後空襲で再び焼失。
戦後に復興して今に至る。


道頓堀
1612年に東横堀川と西横堀川を結んで、木津川へ注ぐ運河を掘削する事業を始めた。
その時の責任者が商人(commerçant)安井道頓。
しかし、道頓が1615年の大坂夏の陣で戦死した為、代役を立てて同年工事完了。
堀の名前について、当時の大阪城城主松平忠明が、道頓の死を悼んで「道頓堀」と名付けた。
Un propriétaire du château d'Osaka, Tadaakira Matsudaira en a pleuré la mort et nommé "Doton bori".
阪神タイガース優勝時の阪神ファンや、サッカー日本代表W杯出場決定時のサポーター(supporter)や、年末年始のカウントダウン時には道頓堀川へ飛び込む(se jeter)行為が見受けられるが、行政(administration)は飛び込み禁止を訴えている。

道頓堀グリコサイン
初代は1935年で、モデルは1923年極東選手権競技大会で活躍したフィリピンのランナー(un coureur philippin)や1924年巴里五輪日本人選手(J.O. à Paris 1924)を参考にデザイン。
1943年、鉄材供出の為解体(démoli)。
1955年、2代目看板再建。
現在の看板は、2014年にリニューアルされた6代目。
江崎グリコ創業者がキャラメルの「グリコ」を考えていた時、子供がかけっこをしてゴールする姿を見て、ゴールインマークが閃いた。
Des enfants font la course et c'est un moment quand il franchit l'arrivée.
第6回極東選手権競技大会
Les jeux de l'extrême-orient
大阪開催
1923年5月21日〜26日
陸上競技(un athlétisme)
競泳(la course de natation)
野球(le base-ball)
テニス(le tennis)
サッカー(le football)
バスケットボール(le basket-ball)
バレーボール(le volley-ball)
ボクシング(la boxe)
ラグビー(le rugby)

江崎グリコ株式会社
1929年創業の菓子類(les friandises)、乳製品(le laitage)、レトルト食品(un aliment en sachet à réchauffer au bain-marie)を扱う大阪市西淀川区に本社を置く食品メーカー。
1919年、創業者の江崎利一が牡蠣の煮汁(Du bouillon des huîtres)からグリコーゲン(le glycogène)を採取し、それをキャラメルに入れた栄養菓子(petit gâteau nourrissant)「グリコ」を製作し、1922年に大阪の三越百貨店で販売したのがきっかけ。
氏は「子供の二大楽しみ、食べることと遊ぶことを同時に満たす」
「Deux grands plaisirs pour les enfants, manger et jouer」
と考え、おまけ(un petit jouet)を同梱し大ヒット商品となった。
これが日本における食玩の元祖。

くいだおれ
「株式会社くいだおれ」は1949年創業の企業。
屋号は「京の着倒れ、江戸の飲み倒れ」という「京都の人間は着物道楽が過ぎて、江戸の人間は良い酒を飲み過ぎて財産を失う」という意味の慣用句。
店頭の「くいだおれ太郎」は1950年に登場し、大阪を代表する名物キャラクター。
文学人形をモチーフにした電動稼働人形。
戦後の大阪復興(la reconstruction)を目指し食堂として創業。
創業当初は「飲食店は大人だけが行く所」という認識が一般的であり、 チェーン展開によるファミリーレストラン(restaurants familiaux)が普及する1970年代よりも20年以上も前に子供連れの家族が外食するレストランというビジョンを予測し、その実質的な入店意思決定権者である子供の興味を引く事を第一としたマーケティング戦略に基づいて制作されたのがこの人形。

法善寺横丁
長さ80m、幅3mの2本の露地が東西に延びる横丁内には、老舗割烹やバー、お好み焼き屋や、串カツ店などが軒を連ねている。
風情のある趣は、もともと浄土宗天龍寺法善寺という寺の境内で、参拝客相手の露店(baraques de forains)が起源と言われている。

かに道楽
1960年に創業した蟹料理専門店。
道頓堀本店をはじめ、関西を中心に全国展開。


梅田スカイビル
  • 着工…1990年6月29日
  • 竣工…1993年3月25日
  • 高さ…175m
  • 設計…原広司
  • 階層…地下2階、地上40階
  • 空中庭園を再現
  • 地上で庭園を組み立てた後、上空150mまで吊り上げた
1990年着工→1993年竣工
地上40階、地下2階、高さ173mのオフィスビル。
建築家で京都駅の設計も務めた原広司(はらひろし)は、高さを競うよりも人々が古来より追い求めている
空の中に広がる楽園(le paradis en l'air)
空中庭園(le jardin en l'air)の実現」こそ、梅田スカイビルのキーワード(la thème)。
梅田スカイビルは当初3棟連結の計画(le projet)だったが最終的に現在の2棟連結になった。
しかし、将来的に3棟目を建てる計画は今も眠っている。
この工事にあたってはワイヤー(le câble)によるリフトアップ工法を採用。
地上で組み上げた1,040tの空中庭園を、4基のウィンチ(4 treuils)によって毎分35cm、7時間かけて150m上空まで吊り上げた。
D'abord, le jardin 1040t a été monté par terre, et puis on l'a levé en utilisant le câble et le treuil, 35cm toutes les minutes jusqu'à 150m d'altitude pour 7 heures.
展望高168.7mの空中庭園展望台は360度の視界。


あべのハルカス
  • 着工…2010年1月9日
  • 竣工…2014年3月7日
  • 高さ…300m
  • 設計…竹中工務店、César Antonio Pelli
  • 階層…地下5階、地上60階
  • 用途…鉄道駅、百貨店、事務所、ホテル、美術館、展望台
2014年開業の複合商業ビル。
60階建(300m)の鉄道駅、百貨店、ホテル、オフィス、美術館、展望台。
詳細は日本の高層建築ランキング参照
設計は、アメリカの建築家César Pelli監修。
エレベーター数56基。


大阪城

  • 1583~1585年…豊臣秀吉築城
  • 1600年…関ヶ原で徳川家康勝利
  • 1615年…大坂夏の陣で落城
  • 1620~1629年…徳川家による再築
  • 1868年…明治維新の動乱で焼失
  • 1928~1931年…鉄筋コンクリートで修築
  • 1945年…大阪大空襲で被災
  • 1948~1949年…接収解除後改修
  • 1995~1997年…平成の大改修
  • 3階と4階は撮影不可
  • 1階から5階までエレベーター可
  • 6階は無く、5階から8階までは階段
  • 7階は狭め、8階にショップ有り
  • 下りは問答無用で階段
1583年、豊臣秀吉の築城。
現存城跡は全て江戸幕府下徳川家の修築。
1600年に関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利→1615年の大坂夏の陣で落城。
1620年に2代秀忠が修復。
その後、落雷や火災で焼失。
天守閣は1931年に鉄筋コンクリートで再現。
戦後大阪城公園が整備され、天守内に美術館展開。

南外堀
大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口。
石垣の総延長は2km、堀の最大幅は75mあり、1628年、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。
幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。
内側の石垣上には東から一番櫓から七番まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番だけが残る。
南外堀の水源は、徳川築城時から戦後頃までは地下水の湧き水で、現在は下水処理場から高度処理水を注入。
1965年に水位が急速低下、1971年に旱魃。
これは、高度経済成長で大量の地下水が汲み上げられた事に起因。
1959年に地下水汲み上げ規制。
更に工業用水を入れ水堀の面影回復。
1970年、万博博覧会をきっかけに、公園事業をもとに景観を重視すべく、下水処理場の高度処理水を、公園用水(修景用水)として1970年から注入、現在に至る。

玉造口
大坂城の東南の出入口。
ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代には大手口や京橋口と同様、石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓が建っていた。
多聞櫓は1868年、明治維新の動乱にともなう大火で焼失し、その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により枡形が撤去された。
焼け残った玉造門も撤去された為、現在では門両脇の石組みのみ残る。
「玉造」の地名は古代にまで遡り、古墳時代、勾玉・管玉(くがたま)など装飾用の石を作った技術者集団「玉造部(たまつくりべ)」がこの南方に住んでいたと推定。
玉造口定番屋敷跡
江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷があった。
大坂定番は定員が2名で、その内玉造口定番は二の丸玉造口の内側に屋敷をもち、玉造口守衛の他、京橋口定番と共に城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にも携わった。
建物は明治維新の大火で焼失。
跡地には軍事病院が建てられ、1877年に起きた西南戦争では、戦地から戻った多くの傷病兵が収容された。

蓮如上人袈裟懸の松
豊臣秀吉が大坂城を築く以前、浄土真宗の本願寺第8世蓮如上人は、坊舎を造り、今は切り株になっている松に袈裟を掛け、宗派繁栄を祈願。
西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建ち、大坂(石山)本願寺時代の史跡として保護。

石山本願寺と大阪
1496年、本願寺8代目蓮如が大阪に宿坊を築く。
「大坂」という地名が初めて現れるのは、1498年11月21日付の蓮如の文章。
この坊舎を中心とし周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」と言われた寺内町が形成。
1532年、山科本願寺が火災に遭い、この地に本願寺の中心が移った。
やがて本願寺は織田信長と対立し1570年から11年間続いた石山合戦の後1591年に京都へ移転。
信長は寺社勢力の利権に手を出しており、他の大名が着手してこなかった寺社勢力の利権獲得によって信長は素早く強大な経済力を持つ事が出来た。
一方、豊臣秀吉は、
1580年…石山本願寺焼失
1583年…石山本願寺跡に大阪城築城
1615年…大坂夏の陣で炎上
1626年…江戸幕府により再建

東大番衆小屋跡
大坂城が徳川幕府の城だった江戸時代、この付近から現在の豊国神社の社地にかけての一帯に「大番」と呼ばれる将軍直属の旗本部隊の小屋(宿営)があった。
大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交替で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋で起居し、大坂城本丸の警備等を務めた。
大番職は1867年5月に廃止され、大番衆小屋は翌年に起きた明治維新の大火で焼失。

空堀
本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水堀となっているのに対し、南とそれに続く西にかけては水のない空堀。
豊臣秀吉築城時も、徳川幕府再築の際も空堀で、理由は不明

銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部庁舎裏手の銀明水井戸のもの。
銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿台所の裏に位置し、本丸を答備する役人たちの飲料水として用いられた。
大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」を名に冠し重要性を表現。
1931年、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。
なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。
今は配水池に埋もれて見れない。

桜門
本丸正面
1626年徳川幕府再築城時に創建→1868年焼失→1887年に陸軍(armée de terre)が再建。
左右の塀は戦後の台風で倒壊→1969年復元。
桜並木にちなんで豊臣秀吉時代に命名。
当時は今よりも西に位置。
門の両脇に見える巨石は龍虎石と言い、雨が降ると左に虎、右に龍が現れた。

桜門升形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守る為、石垣で四角く囲まれた「升形」と呼ばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた。
升形は1624年徳川家の増築で、岡山産花崗岩(le granite)使用。
正面の蛸石は、城内最大の巨石で表面積(superficie)60㎡で重量108t。
上部の多聞櫓は1868年の大火で焼失。

旧第四師団司令部庁舎
現在の大阪城天守閣と同じ1931年、陸軍第四師団司令部庁舎として建設。
鉄筋コンクリート造で、欧風の城を参考とし、左右対称の重厚な外観。
第二次世界大戦終結時には第十五方面軍司令部及び中部軍管区司令部の庁舎だった。
連合国軍による接収の後、1948年から警察(大阪市警察局、大阪市警視庁、大阪市警察、大阪府警察)の庁舎として、1960年から2001年までは大阪市立博物館として使われた。
2017年に耐震補強並びに外内装の修復や改装工事が完了し、現在は来訪者向けに土産物や飲食、大阪城公園内の史跡に関する情報を提供する「ミライザ大阪城」として利用。

本丸御殿跡
大坂城本丸には天守の他、政治を行う為の御殿があった。
大坂の陣で焼失→徳川幕府が再築。
幕末に家茂公が長州戦争の指運を執った。
1868年明治維新で全焼→1885年跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも1947年に焼失。
ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近に相当。

大阪城天守閣
現在の天守閣は1931年、大阪市民の寄付(la contribution)によって建設。
鉄骨鉄筋コンクリート造で高さ54.8m
初代天守閣は1585年に完成したが、1615年の大坂夏の陣で焼失。
2代目天守閣は1626年に徳川幕府が築城。
しかし1665年の落雷で焼失。
戦前に再建された天守閣は空襲を免れ、1997年に改修。

タイム・カプセル EXPO'70
「人類の進歩と調和」をテーマとした日本万国博覧会を記念して毎日新聞社、松下電器産業株式会社の両社は同じ内容のカプセル2個を完成し、この地下15mに埋設。
日本や世界各国の協力を得て選んだ20世紀の文化所産2098点が、最新の保存技術によって特殊金属製容器に収納されている。
私達は限りない世界の平和と繁栄を信じて、5000年後の人類にこれを残す。
上部のカプセルは毎世紀初頭に、下部のカプセルは6970年に開封。
1971年3月15日
2000年の第1回開封の際、カプセルから取り出したマツやヒノキ(le cyprès)の種子(la graine)を試験栽培した所、見事に芽を出し、育ってきた。
この内、アカマツ3本を吹田市の万博記念公園(EXPO'70会場跡地)に移植し公開。

日本庭園
1931年の大阪城天守閣復興に併せて、大阪市が当時東側に建っていた紀州御殿の庭園として整備した純日本式庭園。
中央の池は面積991㎡の鶴翼形(les ailes de la grue)、背景に築山を巡らす。
池南側から天守を借景した庭園が楽しめる趣向。

残念石
1620年の大阪城再築時に小豆島で割られたまま用材石としての念願叶わず放置された石。

多聞櫓
大手口升形の石垣上に建つ櫓。
高さ14.7m、総面積710.25㎡
屋内は兵士や武器を蓄えることができ、升形内側の窓や大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落とし」の装置が設けられた。

ラジオ塔
1938年に設置されたラジオ塔。
戦前は各地の公園や広場にラジオ聴取施設が設けられた。

大手門
1628年徳川幕府により創建。
正面左右の親柱の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控え柱との間にも屋根を乗せた「高麗門」形式。
屋根は本瓦葺、扉や親柱は黒塗総鉄板張。
親柱・控柱の下部は腐食(pourrir)により根継ぎが施されているが、正面右側の控柱の継手は、一見不可能にしか見えない技法。

大田口枡形の巨石
大手門をくぐって正面に位置する大手見付石は表面積50㎡
左の大手二番石は38㎡
右の大手三番石は36㎡
いずれも採石地は小豆島

教育塔
1934年9月21日8:00室戸台風で大阪に被害。
災害で亡くなった生徒や学校関係者の慰霊塔。

西の丸庭園
1965年開設、面積64㎡
豊臣秀吉の時代には豪華な御殿の建つ大阪城の要地で、秀吉没後には正室のおね(北政所)、ついで徳川家康の居住地となった。
徳川時代には現在の庭園のうち北半分が倉庫群となり(西の丸土蔵曲輪)、南半分は、大阪城に赴任した幕府の重職、大坂城代の屋敷地となった。
明治維新後は陸軍、第二次世界大戦後は警察学校の用地となり、現在は芝生と樹木の庭園、桜の名所として人気。
南仕切門跡・太鼓櫓跡
二の丸の西と南は石垣で仕切られ、その通路に建っていたのが南仕切門。
門西側石垣の上には太鼓櫓と言う二層の櫓があり、共に徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる1628年の創建。
太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。
ここには太鼓坊主とよばれる僧形(そうぎょう)の役人が交替で詰め、彼らは香を炊いて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。
いずれの建物も1868年、明治維新の大火によって焼失。
焔硝蔵【重要文化財】
徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は1685年建造。
焔硝蔵は城内数か所にあったが、落雷を受けて大爆発を起こしたり、部材の腐食等、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。
その為、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水工夫がなされ、床・壁・天井・梁を全て花崗岩とし、石壁の厚さ2.4m、屋根の下は土で固められている。
面積171.9㎡、高さ5.4mで、石造りの火薬庫は日本では他に例がない。
徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝の他にも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。


新世界

通天閣
  • 着工…1955年8月17日
  • 竣工…1956年
  • 大阪商工会議所会頭(un chef de la chambre de commerce)土居通夫が1900年のパリ万博から凱旋門の上にエッフェル塔を乗せた初代通天閣を1912年に建設。
  • 第二次世界大戦時に大破し、鉄材供給へ。
  • 1956年に内藤多仲が再設計。
  • 高さ108mの産業振興目的で建てられたシンボル的存在。
1903年、第5回内国勧業博覧会(5ème exposition industrielle domestique)開催。
その際、当時の大阪商業会議所会頭(un chef de la chambre de commerce à Osaka)土居通夫がパリに飛び、パリ万博の仕組みを調査。
1912年、博覧会跡地にパリの凱旋門にエッフェル塔の上半分を乗せたようなデザインの初代通天閣を設計。
1943年、間近にあった映画館からの火災で焼失し、1956年に再建。
高さは100m+8m避雷針(le paratonnerre)で、設計者は東京タワーと同じ内藤多仲。
用途は展望塔。


ビリケン
Billiken
  • 1907年、米人美術教師(une enseignante des arts américaine)により誕生。
  • 彼女はビリケンが人々の希望と幸福の象徴になるようにデザイン。
  • 彼女自身が日本に興味があり、ビリケンも東洋美術の影響が見られる。
  • 1909年に日本伝来。
  • ビリケン像の足の裏をくすぐって笑えば利益がある。
    On chatouille sa plante du pied, s'il rit, il vous rend heureux.
1907年、米人美術教師フローレンス・プレッツ(Florence Pretz)が親友の詩人(un poète)サラ・ハミルトン・バーチャルの作品である「ビリケンシリーズ」の為にデザイン。
プレッツは、ビリケンが人々の希望と幸福の象徴になる事を願った。
Elle a souhaité que Billiken devienne le symbole d'espoir et le bonheur pour tout le monde.
最初に粘土(une argile)で製作した人形には、オマル・ハイヤーム(Omar Khayyam)の「ルバイヤート(Rubaiyat)」の一節(un poème)「Ah, Love, could thou and I with Fate conspire,…」を記した紙切れを入れた。
プレッツ自身が日本に興味関心があり、ビリケン造型には東洋美術の影響が見られる。
1908年の特許(le brevet d'invention)取得後、契約の不備(des lacunes dans ces contrats)により、デザイナーであるプレッツには月に30$しか支払われず、彼女はビリケン自体に嫌悪感を抱くようになる。
当時の新聞記事
「ビリケンは作者以外全員に幸福をもたらした」
Billiken a rendu tout le monde heureux sauf dessignatrice.
と書かれた。
日本へは1909年頃に伝わり、1911年に大阪の繊維会社・神田屋田村商店(現・田村駒株式会社)が商標登録を行い、販売促進や商品キャラクターとして使用。
ビリケン像の足の裏をくすぐって、笑えば利益がある
→足を触るとご利益がある。
On chatouille sa plante du pied, s'il rit, il vous rend heureux.


四天王寺
  • 創建…593年
  • 宗派…和宗
  • 本尊…救世観音
  • 開基…聖徳太子
593年、聖徳太子が鎮護国家と衆生救済の為、仏教の守護神である四天王(持国天・広目天・増長天・多聞天)を安置し建立。
南から北へ向かって中門→五重塔→金堂→講堂といった主要堂宇が一直線上に並び、それを回廊が囲む建築様式を「四天王寺式伽藍」と言い、日本最古の伽藍配置様式である。
聖徳太子の偉業は、創建時に四箇院を設置した事が挙げられる。
四箇院とは、
  • 敬田(きょうでん)院…仏教を基とした全人教育事業(四天王寺学園)
  • 悲田院…社会福祉事業(四天王寺福祉事業団)
  • 療病院…
  • 施薬院…四天王寺病院等の医療部門(共に四天王寺福祉事業団)
である。
四箇院制度をはじめとした聖徳太子の衆生救済の仏教基本理念は、現代にも脈々と受け継がれている。
それが宗派や時代を超えて広く信仰を集め、四天王寺は「太子信仰」の聖地ともなった。
当寺は度重なる戦火や災害に見舞われ、多くが焼失したが、現在の建築は飛鳥時代の創建当時の様式を忠実に再現。
総面積11haの境内には聖徳太子の御霊を祀る聖霊院(太子殿)もあり、創建当時の品々など、500点余りの国宝や重要文化財を所蔵する宝物館もある。

南大門
593年創建。
現在の門は1985年再建。
熊野権現礼拝石が玉垣内に鎮座。
往古より熊野詣にはまずこの場所で熊野を遥拝し、道中の安全を祈り、熊野街道を南へと向かった→熊野本宮大社迄140km
熊野権現礼拝石
四天王寺四石の一つ。
  • 転法輪石
  • 引導石
  • 伊勢神宮遥拝石
  • 熊野権現礼拝石
平安・鎌倉時代に盛んであった熊野詣りの道筋は、京都の宇治から大阪の天満まで淀川を船で下り、天満から四天王寺・住吉大社・和歌山の田辺を通るもので、熊野街道と呼ばれた。
四天王寺の西門信仰(※)と同じく、熊野三山が極楽往生を願う浄土信仰の聖地として篤く信仰された事から、人々はまず当山に詣でた後、ここで熊野の方向に礼拝し、熊野までの道中安全を祈った。
※西門信仰
四天王寺の西門(石鳥居周辺)を聖地とする浄土信仰。
西に沈む夕陽を拝む事で西方極楽浄土を観想する「日想観」の聖地として、平安時代以降、幅広い階層の人々から厚い信仰を集めた。

中門(仁王門)
  • 創建…593年
  • 再建…1963年
  • 構造…鉄骨鉄筋コンクリート造、三間一戸単層本瓦葺き
元来、中門は中心伽藍の南端に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛カ士(仁王像)を祀る事から仁王門とも呼ばれ、ここが中心伽藍本来の正面。
左の青色像は「吽像」密述金剛力士、右の赤色像は「阿像」那羅延金剛力士。
仁王像の重さは1t、身長は5.3m、顔の長さ70cm、足の親指の幅だけでも13cmの巨大な仏像で、我が国に現存する仁王像の中でも最大級
1963年2月、大仏師松久朋琳・宗琳の両大仏師が手掛け、同年12月に献納。
門の正面に立つと鴟尾(※)の間に五重塔が見える。
五重塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍は、日本最古の伽藍配置として知られ、今日の伽藍も創建当時と同じ位置を保っている。
※鴟尾(しび)
中国北魏時代に始まり、日本では飛鳥時代から奈良時代にかけての古代寺院建築でよく見られる魚の尾または鳶(le milan noir)の尾の様な形状をした装飾。
沓(くつ)にも似ており、「沓形(くつがた)」とも呼ばれる。
一方、鯱は近世の城郭建築等で使われる龍頭魚身の姿をしたもの。
双方共建物の火難除けとしての意味が込められている。

伽藍配置と排水溝(白鳳時代)について
この伽藍配置は四天王寺式と呼ばれ、主要な堂塔が南北一直線に構築された中国朝鮮の上代寺院様式を継承したもの。
その伝統ゆえ、戦後伽藍復興に際し1956年から3年間、文化財保護委員会と大阪府によって伽藍遺跡の発掘調査の結果、全く堂塔の位置に変化のない事が実証された。
又この排水溝は金堂の雨落溝の排水目的として造られたと推察。
廃瓦を両側に積み上げその上部に奈良時代の平瓦を覆った極めて簡単な構造で1200年の間この姿で保存された珍しいもの。
なおこの排水溝の西側現在の参道の直下に2㎡のほぼ創建当時の参道と考えられる道が塔、金堂に向かって造られていたものと推測。

五重塔
聖徳太子創建時、六道利救(※)の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髪六毛を納めたので、この塔を「六道利救の塔」と言う。
塔の入口は南北にあるが、通常開放しているのは北側のみで、南正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像をお祀りする。
この中心壁と外壁の各面に描かれた仏画は山下摩起画伯の筆。
※六道利救
全ての生命が輪廻転生する6つの世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)の迷いを救済するという仏教の悲願。

金堂
聖徳太子御本地仏である救世観音を祀り、四方を四天王が守護。
毎日11時より舎利出しの法儀が厳修される。
南無仏の舎利を以て、先祖の戒名が書かれた経木にあてられ、又参詣者の頭にあててもらおうと多くの信者が参詣。
基壇下の青竜池より、白石玉出の清水が湧いており、この水を亀井堂に引いている。
内壁には中村岳陵画伯筆の仏伝図が描かれている。

講堂
経典を講じたり法を説いたりする七堂伽藍の一つの堂。
講堂内陣は中央を境に、東を冬堂、西を夏堂と呼ぶ。
冬堂には現世の人々の悩みや、苦しみを救う十一面観世音菩薩、夏堂には来世極楽に人々を導く丈六阿彌陀如来を祀る。
現世と来世の二世に亘り、人々を安楽へ導き給うようにとの願いが講堂には込められている。
内壁には、郷倉千靭画伯による仏教東漸が描かれている。

野沢菜原種 旅の起点
「野沢菜」は、1750年代、長野県野沢温泉村の古刹・薬王山健命寺第八代住職・晃天園瑞和尚が京都遊学の折、大阪四天王寺発祥の天王寺蕪の種を待ち帰り、自坊庫裡裏の畑で栽培した処、野沢温泉村の地味により、蕪が小さく大振りな葉柄の美味なる「蕪菜」に成長したものである。
野沢菜伝来250年を記念して、伝来した往時の街道を辿る為、四天王寺管長・奥田聖應より天王寺蕪の種を戴き
2009年10月、旧中山道経由で23日間
2013年10月、北国街道経由で30日間
の実に600kmに及ぶ行程を大勢の村民と天王寺蕪の会有志が踏破し、11月1日建命寺住職・大谷俊雄和尚の許に魔事無く種を届ける事ができた。
当時の食糧事情を鑑みるに「種」の確保は生命確保の上で大切な手段であった事から晃天園瑞和尚が大切に持ち帰ったその天王寺蕪の種は永い刻を経て現在、野沢菜としてこの地に根付き、その名前は日本全国に知れ渡る事となった。
野沢温泉村の地に種をもたらせた健命寺住職・晃天園瑞和尚の偉業を讃え、野沢菜を現在まで大切に育んで来た先人達に感謝の意を捧げ報恩謝徳の志を以て比処にこの碑を建立する。

石舞台【重要文化財】
六時堂の南、亀の池の南北に架かる石橋に組まれたもので、聖霊会(※)の舞台となっている。
この四天王寺の石舞台は、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台と共に、「日本三舞台」の一つとされている。
1808年に大阪の材木問屋の寄進により建造され、欄干には「舞台講」の文字と、石舞台再建に努めた大阪の材木問屋講、講元四名、講中70名の名が刻まれている。
元は白木造だったが、再建時、石切御影石造に変更。
1954年に重要文化財指定。
※聖霊会
聖霊会は四天王寺で最も重要な舞楽大法要であり、聖徳太子の御霊をお慰めするもので、毎年4月22日に厳修される。
六時堂内中央に太子が自らの姿を楊の枝で写されたと伝わる「楊枝御影(摂政像)」をお祀りし、舞台上では四天王寺一山衆僧による四箇法要と、天王寺楽所による雅楽が夕刻まで繰り広げられる。

龍の井戸
四天王寺では、中心伽藍金堂の地下に流れる荒陵池の麗水に住む青龍が寺域を守護していると信仰されている。
江戸時代には井戸屋形が造られ、中心伽藍内でも重要な建物。
第二次世界大戦時に焼失した井戸屋形は、戦後の復興で現在の形となった。
井戸枠は小豆島産花崗岩一石で造られ、見えがかりの高さ76cm、外側は八角形、中央に直径1m45cmの円孔がくり抜かれている。
屋形の天井には、五重塔壁画も手掛けた日本画家の山下摩起画伯(1890~1973)による龍が描かれており、井戸を覗き込むと水面に龍の姿が浮かび上がる様になっている。
直接に井戸水の蒸気が当たる構造上、天井画の劣化が激しかった為、2017年に防カビ加工を施した天井画が掲げられた。

引導石
引導とは釈尊が「生者必滅$ 会者定離」の人生無常の迷いの世界より、人々を究極の悟りの世界へと導かれた事を指し、転法輪石、伊勢神宮遥拝石、熊野権現礼拝石、とあわせて四天王寺四石の一つに数えられている。
諸人葬送の時に棺を引導石の前に置き、無常院(北引導鐘堂)の鐘を三度鳴らすと、太子様がこの石に影向ありて亡魂を極楽浄土の世界に導く伝説があり、太子信仰と浄土信仰を結ぶ重要な霊跡となっている。
転法輪
古代インドの戦車の車輪を象ったもので「お釈迦様の教え」の意味がある。
参詣者はこれを手の平で軽く右(時計回り)に回転させ、仏の尊い教えが車輪のように回転して遠くまで広がる様を表す。