山梨県
山梨県
甲府市
富士吉田市
面積
4,500㎢
200㎢
120㎢
人口
770,000人
180,000人
40,000人
目次
富士山
標高
3,776m
山頂周
3km
東西
39km
南北
37km
裾野面積
1,200㎢
富士山神話
天照大神(アマテラス)
瓊瓊杵尊(ニニギ)
木花咲耶姫(サクヤ)
日向(現宮崎県)に降臨した天照大神の孫(un petit-fils)ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメに求婚。
サクヤの父オオヤマツミは喜び、サクヤの姉石長比売(イワナガヒメ)も差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいサクヤとだけ結婚した。
オオヤマツミは激怒し、
「イワナガヒメを妻にすれば天孫(les descendants)の命は岩の様に永遠なものとなり、 サクヤを妻にすれば花が咲くように繁栄(prospérer)する。
サクヤとだけ結婚すれば、天孫の寿命短くなる。」
と言った。
故に、子孫の天皇家は神々に比べて短命となった。
サクヤが身籠る(être enceinte)も、ニニギは自分の子供ではないのではないかと疑った。
Il a douté qu’elle ne soit pas enceinte ses enfants.
サクヤは産屋に入り、ニニギの子なら何があっても産めると、火を放った。
その中でホデリ(長男)・ホスセリ(次男)・ホオリ(三男)の三柱神を産んだ。
Elle a accouché trois enfants.
このホオリの孫が初代神武天皇。
サクヤは火の神として父オオヤマツミから火山である日本一の霊峰「富士山」を譲られる。
富士山の歴史
古代より山岳信仰の対象として崇められていた富士山は、仏教流入(538年)に伴う神仏習合の影響もあり、山頂の仏の世界を目指して修験者たちが登山に励んだ。
初の登山者
富士山初登頂は663年 呪術者(le chaman)で修験道開祖の役小角(えんのおづの) 。
修験道…
Une sorte de bouddhisme ésotérique(密教), et l'ascétisme(禁欲主義).
山に籠って厳しい修行の末、悟りを開く。
役小角は大和国(現奈良県)出身で、若い頃から山で修行を重ね、修験道の基礎を築いた。
彼は言葉で人を惑わしているとされ(il a troublé des gens en parlant)、伊豆大島へ流罪となり(il déporté)、毎晩島を抜け出しては海上を歩き、富士山を登った。
Il s'est évadé d'une île, et il a fait l'ascension du mont Fuji.
伊豆大島から富士山まで100km
神道的目的…火山噴火(éruption)や自然災害(le désastre naturel)は神の怒り。
仏教的目的…修行を積み、悟りを開く。
これらの価値観が合わさりできたのが修験道 。
女人禁制
古代より山岳信仰の対象として神聖な場所である為、女人禁制だった。
神道的側面…
神道において、生物の身体から離れたものは穢れ(la tache)とみなされる。
頭髪・爪(ongle)・排泄物(excréments)・血など、特に生理中(elles ont ses règle)の女性はタブーとされた。
仏教的側面…
性欲(le désir sexuel)などの煩悩を排除する為。
修験道の修行地が険しい山道で、当時は魑魅魍魎(le monstre)の住む危険な場所とされていた為、子供を生む女性は安全の為、近づいてはならない場所とされていた。
現在でも相撲の土俵に女性は上がれないなどの影響が残っている。
富士講
江戸時代に成立した民衆信仰(la religion privée)のひとつで、特に江戸を中心とした関東で流行し、全国へ広がった。
広義には富士山とその神霊への信仰を行う講社全般を指す。
江戸時代、江戸から吉田まで健脚でも片道3日、吉田から頂上まで往復2日の合計8日間。
相当な時間と費用がかかる為、庶民からお金を集めて代表者が祈願する。
これが講。
富士山の現状
近年における最大の噴火は1707年 で、2週間以上も噴火が続き、100km以上も離れた江戸の町まで火山灰(cendres volcaniques)が降り積もった。
以後小規模な噴気は見られても大きな噴火は無い。
2013年に世界文化 遺産登録。
活火山の定義 la définition du volcan actif
国際的定義では、過去1万年以内に噴火した火山 。
日本の定義でも、概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山 とされており、この定義による2017年時点の日本の活火山数は111 である。
自然遺産になれない理由
La forme…
世界に類似する円錐形独立峰がいくつか存在している。
Il y a quelques montagnes indépendantes coniques dans le monde.
L'activité volcanique…
世界により激しい火山活動を記録する山が登録されている。
Il y a quelques volcans actifs dans le monde.
La nature…
人間によって利用されていない本来の自然という観点から外れている。
Le mont Fuji n'est plus naturel.
長年、ごみの不法投棄等により管理体制が不十分。
登山
登山シーズンはルートにより異なるが、概ね7月10日〜9月10日 で、それ以外の時期は罰則対象。
違反者は、6ヶ月以下の拘禁刑 又は30万円以下の罰金 。
年間登山者数は200,000人 。
基本的には5合目(2,400m)迄はバスや車で行くが、麓から歩いて登る場合は、吉田ルートに江戸時代に使われていた登山道がある。
馬返し(1,450m)から5合目(2,300m)まで3時間、
5合目から山頂まで6時間の計9時間。
宿泊せずに登山及び下山可能だが、山小屋を予約して道中で1泊以上するのが望ましい。
富士山頂は万年雪と言われているが、登山シーズンの7~9月(特に9月)は雪がほとんど溶ける。
富士急行とスイスのマッターホルン・ゴッタルト鉄道(MGB)は1991年に姉妹鉄道提携を結んでいる。
新倉山浅間公園
標高850m
1959年 に設置された公園。
園内には650本のソメイヨシノ。
398段ある階段はサクヤヒメ階段と呼ばれ、200mある。
1962年に忠霊塔が設置され、毎年9月に戦没者慰霊祭が行われる。
鉄筋コンクリート造で高さ19.5m。
仏塔(pagoda)ではなく慰霊碑。
富士山世界遺産センター
冨嶽三六〇
目の前のオブジェは、富士山の標高およそ1,500m以上の姿を1/800のスケールで表現。
かつてこの範囲は信仰の領域とされていた。
これより下方は、麓に暮らす人々が薪や肥料を採取する生活の領域だった。
吉田口登山道では、馬返がその境界地点に当たる。
「冨嶽」は富士山の別称。
御中道回廊
富士山の中腹、木立(森林帯)と毛無(火山性荒原)の境を縫う様に周回する道「中道」を模して作られた。
富士講は、「中道」を時計回りにたどる修行を「御中道」(中道巡)と名付けた。
大沢崩などの難所もあり、経験を積んだ者だけが臨む難行だった。
溶岩洞穴をめぐる信仰
富士山の噴火によって流れ出た溶岩が生み出した溶岩洞穴。
山麓に点在する洞穴は、古より神仏が宿る場として信仰の対象となってきた。
特に溶岩が樹木を飲み込み、これを焼き尽くしてできた洞穴を溶岩樹型と言う。
その壁面は、時としてあばら骨のように見えることがある。
富士講は、こうした溶岩樹型を人間の胎内に見立て、ここを潜り抜けることで生まれ変わりを願う「胎内潜」という修行をした。
五雲亭貞秀(1807~79)の浮世絵「冨士山體内巡之図」には、人々が狭い船津胎内の内部を這いつくばって進む姿や、乳房の様な形の岩から滴る水を母乳に見立てて飲む姿が描かれている。
富士講は、洞穴中の砂を紙に包んだり、岩から滴る「乳」を紙片や布切に浸して持ち帰り、安産のお守りや妊婦の腹帯とした。
吉田胎内
船津胎内から700m程南東、吉田口登山道の近く。
この地に修行の場を開いたのは、丸藤講の一支流、丸藤宗岡講で、1892年の事。
現在、毎年4月29日に「吉田胎内祭」が催され、この日は内部の見学が可能。
女神像の変容
静岡県裾野市の茶畑浅間神社には、10~11世紀に造られた浅間神像2体が祀られている。
共に四面の顔があり、これらは全て女神。
江原浅間神社の神像と同じく、複数の顔を持つ姿で表現されている。
忍野村の忍草浅間神社の女神像は一面の神として表されている。
二体の男神像が付随しており、1315年に造られた。
300年の間に、浅間神の表現方法も大きく変化しているが、その理由は明らかになっていない。
女神と大日如来の習合
吉田口二合目の御室浅間神社に祀られていた尊像。
女神の上部に、大日如来の姿が表されている。
神と仏は本来同一であるとする神仏習合の考え方を色濃く反映している。
こうした考え方のもと、浅間神は12世紀頃には浅間大菩薩と呼ばれるようになった。
木花開耶姫命
吉田や川口の御師は、参詣者に神仏の姿を描いた御影や、牛王と称する護符を頒布した。
また、閉山期の檀家(得意先)への挨拶廻りにもこれらを持参した。
1788年の御影では、富士山上に阿弥陀三尊すなわち仏が描かれている。
1800年のものでは、木花開耶姫命の女神像がこれに取って代わっている。
その後、明治新政府(1868年成立)が採った神仏分離政策により、女神=木花開耶姫命を強調するデザインは益々普及した。
江戸の富士の山開き
下谷坂本富士は、台東区下谷の小野照崎神社の境内にある。
高さ5m、直径16mの塚の正面には、吉田口登山道が再現され、「合目」を示す石柱が立つ。
御中道が中腹を一周し、麓には、修験道の開祖・役行者の石像や古くから富士山の神の使いとされる二匹の猿の石像もある。
江戸の富士塚の典型として、重要有形民俗文化財に指定。
普段は非公開だが、富士山の山開きの前日と当日、6月30日と7月1日の両日は一般開放。
江戸とその周辺の富士
18世紀半ばになると、江戸やその周辺地域の富士講は富士山を模した塚(富土塚)を築くようになった。
これらは単なる富士山の模型ではなく、富士山という霊山そのものの「写」だった。
麓から頂へ向け曲がりくねった道が延び、中腹には御中道が造られ、子供や老人など実際に富士山に登れない者も気軽に登ることができた。
富士講の指導者として知られる食行身録(1671~1733)の弟子高田藤四郎が、江戸郊外の戸塚村(新宿区)に築いた高田富士が、最古の事例だと言われる。
これ以降、20世紀初頭にかけて、関東では多くの富士塚が築かれた。
行衣(ぎょうえ)
御山(富士山)への登山は修行であり、「浄土」(仏の住む世界)と考えられていた山頂への旅でもあった。
その為、死への旅立ちと同じような白い行衣を着た。
行衣は晒木綿の単衣で、死装束と同様に左前に合わせ、帯や頭の被りものも結び目を縦結びとした。
腰に下げた鈴を鳴らし、掛念仏を唱えながらゆっくりゆっくりと頂上を目指した。
丸尾
富士山麓に暮らす人々は、噴火した富士山から流れ出た溶岩流の台地を「丸尾」と呼ぶ。
語源は、溶岩が転がり下る事を表した「転び」。
災害の最前線である丸尾を、人々は噴火を鎮める信仰の場、また再生した木々を伐採する生活の場として利用してきた。
公式サイト
河口湖
面積
570ha 5.7km 富士五湖2番目
最大水深
14.6m
水面標高
830m 富士五湖最低
富士五湖 のひとつで、いずれも富士山の噴火で出来た淡水湖(le lac d'eau douce)。
河口湖は富士五湖内で2番目に大きい湖で外周は最も長い21km。
ブラックバス(achigan)釣りが有名で、近隣のコンビにまで釣具を取り揃えている。
昔は天然の流出口が無かった為、大雨の際には増水し、湖畔の村々に洪水被害をもたらした。
一方で、山を挟んだ東側の富士吉田市新倉は透水性の溶岩台地(le terrain de lave)が広がり、水利が乏しかった。
そこで、湖水を新倉方面へ通水させる用水路(canal d’écoulement)の工事が行われ、1865年に完成。
遊泳は禁止されていないが、浜辺(la plage)が少なく、観光船やマリンスポーツや釣りが盛んで、溶岩(la lave)質の足場が悪い場所もあり、推奨されてはいない。
富士五湖
1927年 、富士急行株式会社創設者・堀内良平による命名。
いずれも富士山の噴火による堰止湖。
山中湖の形成時期は不明。
1150年前と5000年前説
1850年前説
8世紀説
河口湖は、10000年前説が有力。
本栖湖は20000年以前に古本栖湖ができた後、8000年から10000年前に現本栖湖に続く湖が成立したと推定。
精進湖や西湖は、山中湖、河口湖、本栖湖が形成された後、864年 の貞観大噴火の溶岩流(青木ヶ原溶岩流)によって剗の海(9世紀半ば迄富士山北麓にあった湖)のうち残っていた部分が精進湖と西湖に分断された。
湖名
面積
最大水深
周囲
水面標高
貯水量
山中湖
6.80km2
13.3m
13.87km
980.5m
0.06392km3
河口湖
5.70km2
14.6m
20.94km
830.5m
0.053km3
本栖湖
4.70km2
121.6m
11.82km
900m
0.316km3
西湖
2.10km2
71.7m
9.85km
900m
0.08085km3
精進湖
0.50km2
15.2m
6.80km
900m
0.0035km3
西湖いやしの里根場
西湖北西の集落では、かつて養蚕業(la sériciculture)が盛んに行われており、光を取り入れ換気をする為に2階に窓を設けた「かぶと造り」の茅葺民家(la maison chaumière)が点在。
1966年 の大型台風26号の集中豪雨による土砂災害(éboulement de montagne)で死者94名を出し、集落は壊滅。
2006年 に復興が終わり、野外博物館として開放。
2011年、国の登録有形文化財指定。
忍野八海
富士山の雪解け水(de l'eau de dégel)が地下の溶岩の間で、20年間の歳月をかけて濾過(filtrage)され、湧水となって8箇所の泉を作る。
「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った8つの源泉を巡礼する八海巡りに由来。
仏教には「八正道 」と呼ばれる悟りに至るまでの8つの道がある。
正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定。
外八海
二見ヶ浦(三重県伊勢市)
琵琶湖(滋賀県)
芦ノ湖(神奈川県箱根町)
諏訪湖(長野県諏訪市)
榛名湖(群馬県高崎市)
中禅寺湖(栃木県日光市)
桜ヶ池(静岡県御前崎市)
霞ヶ浦(茨城県/千葉県)
内八海
泉端(富士吉田市)
山中湖(山中湖村)
明見湖(富士吉田市)
河口湖(富士河口湖町)
西湖(富士河口湖町)
精進湖(富士河口湖町)
本栖湖(富士河口湖町)
四尾連湖(市川三郷町)
小八海
出口池
御釜池
底抜池
銚子池
湧池
濁池
鏡池
菖蒲池
久保田一竹美術館
久保田一竹 1917~2003
公式サイト
1937年(20歳)東京国立博物館で「辻が花(つじがはな)」に出会う。
終戦後シベリアに抑留され、死を覚悟するが無事に生還。
Il était détenu en Sibérie, mais il a pu rentrer.
1948年復員後辻が花を研究し、1961年に独自の染色法「一竹染」創業。
1994年人と自然と芸術の三位一体(La Trinité)の当美術館開館。
本館は1,000年を超えるヒバ(cyprès)の大黒柱16本で日本古来の組み上げ技法と西洋のログハウスを併せた独特な技法によるピラミッド型の建築。
新館は内外壁の全てが琉球石灰岩(珊瑚の堆積岩)(des roches coralliennes sédimentaires)でできたガウディ(Gaudi)を想起させる建物。
庭は琉球石灰岩や富士の溶岩(lave)、湧水が見れる。
慈母像窟は、久保田一竹の母を偲び、インドの仏師に彫ってもらった普賢菩薩像と赤子を抱いた女人像の2体を本館北側の清水がこんこんと湧き出る場所に、溶岩で洞窟(grotte)を作り、ここへ安置し、1999年11月8日に開眼式を行った。
とんぼ玉 la boule de verre comme les yeux de la libellule
ガラス玉に色模様を施したガラス工芸品の総称。
最初は信仰や呪術の対象、地位の象徴でもあった。
やがて交易品として貨幣と同等の価値を持ち、交易路を通じて世界各国に広がった。
幼い一竹が心を奪われ「一竹辻が花」の創作に大きな影響を与えた氏のコレクションを展示。
辻が花
室町時代より庶民の小袖として親しまれ、絞りを基調とし描き絵を施した紋様染めの技法。
C'est une technique de la teinture, surtout la teinture du noeud.
安土桃山時代に、辻が花の着物や羽織は武家に寵愛されたが、江戸時代初期にその姿を消す。
理由はより絵画的な細かい描写のできる友禅染の技法が考案されたため。
北口本宮冨士浅間神社
創建…景行天皇40年(110年)
祭神…木花開耶姫命
祭神…天孫彦火瓊瓊杵命(ヒコホノニニギノミコト)=夫神
祭神…大山祇神(オオヤマヅミノカミ)=父神
例大祭…初申祭…5月5日
特殊大祭…鎮火祭…8月26日~27日
山びらき…開山祭…7月1日
山じまい…閉山祭…9月10日
第12代景行天皇の40年(西暦110年)、皇子の日本武尊が景行天皇の命を受けて東国を平定した帰り、神社の南西に位置する大塚丘で富士山を遥拝した事に始まる。
その後、景行天皇50年(西暦120年)、鳥居と祠を建立し、富士山の山霊「浅間大神」と日本武尊を祀る。
788年に甲斐守紀豊庭朝臣が現在の境内地へ新たに社殿を造営して浅間大神を祀り、大塚丘には日本武尊を祀った。
その後逐次造営が行われ、現在の本殿は1615年 に鳥居土佐守成次が造営。
1739年には村上講社村上光清師により境内各所改修工事がなされる。
古代、富士の様な高い山、美しい山は神の座する山として人の出入りは禁忌だった。
よって当地は、御神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場だった。
平安時代頃に山岳信仰が普及し、登山を実践して修行する修験道が各地で広まると共に富士講が出現し、発展するにつれ、御山に登る事を「祈り」とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになる。
初めて富士登山を行ったのは、701年の役小角という行者で、後に富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、1577年に登山。
富士講は「江戸の八百八町に八百八講あり」と言われる程に繁栄し強大になり、甲州街道と富士みち(現国道137号線)を通って吉田口(北口)登山道から入山する関東一円、更に北陸や東北、関西にまでも拡大した。
中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、1733~38年間で、境内社殿の大造営を実施。
現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けなかった。
主な社殿は、887年より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営。
1233年、北条義時造営ののち、1561年に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また1594年、浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側に移された。
角行の立行石【国指定史跡「富士山」構成要素】
この立行石は、1610年の冬、富士講の開祖角行東覚(当時69歳)が吉田の地を訪れ、富士山霊を遥拝し、酷寒の中を裸身にて、石上に爪立ちして30日の荒行をした。
全身より血を噴き、里人の勧めで行を止めた。
角行は本名を藤原武邦と言い1541年1月15日、長崎で生まれた。
戦国の世にあって天下泰平・国土安穏・衆生済度の大願を成就すべく難行苦業の道に入った。
1559年、18歳で故郷を出立ち岩手県盤井郡の「脱骨の窟」で37日の行をなし、後神告により富士の「人穴」に入り、4寸5分角(14cm四方)の材木に1,000日爪立ちするという捨身の荒行を終え、解脱し角行と称した。
1620年角行79歳の時、江戸に奇病が流行り、3日で1,000人死んだが、病を癒し庶民を救い、その名を高めた。
1646年6月3日、106歳にて大往生したが、生涯における修業で主なものは不眠の大業18,800日、立行3,000日、断食300日、造字360字、富士登項128回に及び、富士講の開祖となった。
仁王門礎石【国指定史跡「富士山」構成要素】
境内には神仏習合時代、三重塔・鐘楼・仁王門等、仏教色の濃い壮麗な堂塔があった。
明治初年「神仏分離令」施行時に撤去され、三重塔・鐘楼は失われた。
市内下吉田の臨済宗寺院「月江寺」が護持してきた仁王門も取り払われたが、幸い礎石は難を逃れ、住古のままに現存して昔日の面影をしのばせている。
ちなみに、この仁王門の規模は梁間5.5m、軒高11m
冨士山大鳥居
本両部型鳥居 は全長17m72cm
その名の通り富士山の鳥居とされ、北口本宮冨士浅間神社に社殿が建つ以前よりあった。
日本武尊が当地で富士山を遥拝した時に大鳥居を建てた。
扁額には「三國第一山」とあり、後陽成天皇の弟である良如法親王の筆により、谷村藩主秋元泰朝に1636年奉納された。
「三國第一山」とは日本と中国(唐土)とインド(天竺)の三國で、世界一高く麗しい山とされた富士山を指す。
富士山の鳥居ということもあり60年を以て式年と定められ、建替え・修理がなされてきた。
福地八幡社【重要文化財】
福地八幡社は、古くは「古吉田」の地にあった氏神。
祭神は誉田別命(ホンダワケノミコト)。
1684年に建立、1740年に村上光清を中心とした富士講中が、その古材の一部を用いて再建した経緯をもち、建築技法的にも両期の要素を併せもつ。
1736~41年間の再建は、その規模や構造の類似から東宮本殿を模範にしたと考えられる。
身舎の頭貫木鼻、向拝の獅子鼻、獏鼻は1684~88年頃迄遡る可能性があるが、向拝や妻側に施される絵様の多くは、1736~41年頃のものである。
随神門【重要文化財】
大鳥居に続く第二の入口として随神門がある。
祭神
豊磐門戸神 (トヨイワマドノカミ)
櫛磐門戸神 (クシイワマドノカミ)
門の左右は玉垣を連ねて、神域の中心部と外周部を分かつ意識を強く感じさせる。
1736年の建立であるが、1520年の銘がある随神像の存在や1680年版行の「八葉九尊図」に該当する建物が描かれている事から、村上光清ら富士講中により新たに再建立されたと推定。
この門は蟇股(かえるまた)に七福神と松竹梅に鶴亀を施す等彫刻意匠が多く装飾性に富んだ建物で、高い天井により演出される広がりのある空間や太い柱は参詣者に豪壮な雰囲気を与え、当社の表入口を守るに相応しい門となっている。
神楽殿【重要文化財】
1737年頃に村上光清を中心とした富士講中による境内建物の大修理において建立。
この神楽殿は、富士山御師により太々神楽が奉納された舞台であり、現在でも祭礼時に太々神楽が奉納される。
桂間寸法は6.2mと大きく、虹梁形飛貫と頭貫で固め、中備に十二支の彫刻を施した蟇股(かえるまた)据える。
富士山信仰と深い関連をもつ重要な建物。
北口本宮冨士浅間神社の太々神楽 【山梨県指定文化財】
この神楽は戦国時代には奉納されていた。
江戸時代以降、現在の形態に確立し、採物舞(とりものまい)を含む出雲流の神楽は「富士太々神楽」と称せられている。
富士山の神霊に五穀豊穣を願い、感謝する舞。
舞の形態は素面四舞と有面八舞から成り、面の男舞は大地を踏み鎮める為に動き廻って舞う「反閇(へんばい)」と、途中から早いテンポに変わる「散らし」の舞から構成されている。
古くは富士山御師によって継承されてきたが、明治時代中期以降、地元崇敬者で組織する神楽講に受け継がれている。
手水舎【重要文化財】
1745年建立。
木鼻に施された龍や獅子といった彫刻類の多さや、富士山の溶岩から削り出された巨大な水盤石等、村上光清ら富士講中による大修理の集大成となる境内随一の装飾性に富む建物。
水盤石に立つ青銅の龍の口からは、富士山信仰の霊場であり富士八海の1つとして数えられた「泉瑞」から引き込んだ霊水が、現在も絶え問なく流れ出ている。
北口本宮冨士浅間神社の大スギ【山梨県指定天然記念物】
冨士太郎杉
露出根張り…21m
幹根境の周囲…12.7m
目通りの幹囲…8.2m
樹高…30m
枝張り(東西)…12.8m
枝張り(南北)…14.7m
本樹は樹齢1000年程。
根張りが著しく発達し漏斗を伏せたような樹形は、御神木の名に恥じない荘厳さがあり、本殿を見守る。
南側付近の損傷部分は、1959年8月の7号台風により被害を受けたもの。
山梨県を代表するスギの巨樹として、山梨県の天然記念物の第1号に指定。
北口本宮冨士浅間神社のヒノキ【富士吉田市指定天然記念物】
冨士夫婦檜
露出根張り…17m
幹根境の周囲…8.7m
地上から幹根境迄の高さ…1.7m
目通りの幹囲…7.65m
樹高…30m
枝張り(東)…8.5m
枝張り(西)…8.9m
枝張り(南)…7.6m
枝張り(北)…8.3m
この木は2本のヒノキが根元で1本になり、また地上12mで再び合着している事から「冨士夫婦檜」と呼ばれている。
根張りが著しく発達し漏斗を伏せた様な形になっており、枝は上部で四方に良く伸びている。 合着木ではあるが、県下最大の巨樹。
北口本宮冨士浅間神社西宮本殿【重要文化財】
祭神…天照大神
祭神…豊受大神(トヨウケオオカミ)
祭神…琴平神(コトヒラノカミ)
1594年に谷村城主浅野左衛門佐氏重により東宮に代わる本殿として建立されたが、1615年に鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。
その後、1734年に村上光清により大修復が行われた。
全体の形式は東宮と同じ一間社流造。
身舎(もや)は正面を一間とするが、背面は二間に割り付けている。
正面と側面には刎(はね)高欄付の縁を回し、正面には登高欄付の七段の木階を設けている。
身舎は、縁下を八角造とする丸柱、向拝(ごはい)は面取りの角柱で頭貫中央に蟇股(かえるまた)を置き、木鼻には獅子と獏の彫刻を置く。
蟇股(かえるまた)、木鼻には極彩色が施され、細部にわたって装飾、飾金具が用いられているが、向拝柱の飾金具には村上光清の紋である卍と下がり藤の紋が付けられているので、光清修復の時のものとみられる。
屋根は檜皮葺、二重軒付で破風に鏑懸魚(かぶらげぎょ)を付ける。
全体に華麗な挑山前期の建築意匠を伝え、荘厳な本殿建築に向かっての流れを感じさせる。
1964年に解体修理を行っている。
惠毘壽社及び透塀【重要文化財】
惠毘壽社は本殿の裏手にあり、事代主神(惠毘壽)と大国主神(大黒天)の神像を祀る。
惠毘壽社の両側からは透塀が延び、幣殿と接続している。
透塀は墨書から1753年の造営とわかり、惠毘壽社は同時期かやや下るころの造営とみられる。
惠毘壽社の形式は、桁行二間、梁間一間、向唐破風造、瓦棒銅板葺で、前側を板敷の前室、後方を厨子とする。
正面の円柱に虹梁形頭貫を渡して木鼻を付し、台輪を置き、他を角柱とする。
正面柱上に出三斗、中備蟇股(なかぞなえかえるまた)とし、妻飾は虹梁大瓶束。
透塀は東西とも折曲り延長九間、両下造、瓦棒銅板葺で、柱を上方に延ばして霧除をつくる。
透塀は腰長押(こしなげし)、内法長押間(うちのりなげし)に連子窓(れんじまど)をたて、腕木で段葺の屋根を受ける。
霧除は貫を二段通し、絵様付持送で軒桁を受ける。
北口本宮冨士浅間神社東宮本殿【重要文化財】
祭神…天津日高彦火火出見命(アマツヒコタカヒコホホデミノミコト=ホオリ)
1223年、北条義時の創建とも伝えられるが、現社殿は1561年に武田信玄が川中島合戦の戦勝を祈願して、本殿として造営したもの。
その後、1735年に富士行者6世の村上光清により修理が行われている。
本殿の形式は身舎梁間一間、桁行一間で前面に一間の向拝を付ける一間社流造形式。
柱は床下八角に丸柱を用い、高欄を回した縁と登高欄付五段の階を持つ。
屋根は檜皮葺で身舎からそのまま向拝まで延び破風には鏑懸魚を付ける。
この様式は向拝頭貫の蟇股の彫刻と共に室町時代の手法を残すものである。
外観の要所に施した装飾には桃山時代の影響が見られる。
向拝柱にある金具の卍は村上講社の講印であり、藤の紋章は村上家の紋であるので、光清による修理の時のものとみられる。
1952年に解体修理を行った。
北口本宮冨士浅間神社のスギ【富士吉田市指定天然記念物】
冨士次郎杉
露出根張り…17.2m
幹根境の周囲…11.8m
目通りの幹囲…7.8m
樹高…30m
枝張り(東)…5.5m
枝張り(西)…7m
枝張り(南)…7.4m
枝張り(北)…9m
地際の南側が少し腐朽しているが、樹勢は良好で旺盛。
県指定天然記念物の「北口本宮冨士浅間神社の大スギ」程ではないが、根張りが発達し漏斗を伏せたような形をしている。
村上光清同行の灯籠【重要文化財附指定】
本灯籠は、基台部と竿部を石製、中台部から上方を木製とする灯籠で、1756年に奉納されたものである。
拝殿を軸に対称の位置となる西方にも同じ刻銘を持つ灯籠があり、二基一対で奉納された事が分かる。
灯籠の奉納者は、富士行者6世の村上光清が代表を務めた講である「村上光清同行」に所属した「谷村上町講中」である。
この講名から、上谷村の上町(現山梨県都留市上谷)の富士講と考えられる。
また、村上光清は1734年から1745年にかけて北口本宮冨士浅間神社のはとんどの社殿の造営と修理を行った富士行者である。
この内、拝殿及び弊殿は、建立年の1739年以降も十数年にわたって造営が続けられていた事が分かっており、本灯籠はこの造営が終わる頃に造立されたものと考えられる。
境内には村上光清講中が奉納したものを中心に数多くの灯籠があるが、本灯籠は当初の部材を多く残す唯一のものであり、極めて貴重。
© 2021 Tokyo Guide francophone par Daisuke