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山梨県

山梨県 甲府市 富士吉田市
面積 4,200㎢ 212㎢ 122㎢
人口 800,000人 188,000人 46,000人

目次


富士山

標高 3,776m
山頂周 3km
東西 39km
南北 37km
裾野面積 1,200㎢
富士山神話
  • 天照大神(アマテラス)
  • 瓊瓊杵尊(ニニギ)
  • 木花咲耶姫(サクヤ)
日向(現・宮崎県)に降臨した天照大神の孫(petit-fils)・ニニギノミコトがコノハナサクヤビメに求婚。
Ninigi a fait une demande en mariage à Sakuya.
サクヤの父・オオヤマツミは喜び、サクヤの姉・イワナガヒメも差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいサクヤとだけ結婚した。
オオヤマツミは激怒し、

「イワナガヒメを妻にすれば天孫(les descendants)の命は岩のように永遠なものとなり、
サクヤを妻にすれば花が咲くように繁栄(prospérer)する。
サクヤとだけ結婚すれば、天孫の寿命短くなる。」

と言った。
ゆえに、子孫の天皇家は神々に比べて短命となった。

サクヤが身籠る(enceinte)も、ニニギは自分の子供ではないのではないかと疑った(il a douté qu’elle ne soit pas enceinte ses enfants)。
疑いを晴らす為、サクヤは産屋に入り、ニニギの子なら何があっても産めるとし、火を放った。
その中でホデリ(長男)・ホスセリ(次男)・ホオリ(三男)の三柱神を産んだ(elle a accouché trois enfants)。
このホオリの孫が初代神武天皇。
サクヤは火の神として父・オオヤマツミから火山である日本一の霊峰「富士山」を譲られる。

富士山の歴史
古代より山岳信仰の対象として崇められていた富士山は、仏教流入(538年)に伴う神仏習合の影響もあり、山頂の仏の世界を目指して修験者たちが登山に励んだ。

初の登山者
富士山初登頂は663年、呪術者(le chaman)で修験道の開祖の役小角(えんのおづの)。

修験道…
Une sorte de bouddhisme ésotérique(密教), et l'ascétisme(禁欲主義).
山に籠って厳しい修行の末、悟りを開く。
Ils s'enferment dans la montagne et atteingnent l'éveil après leur apprentissages durs.

役小角は大和国(現在の奈良県)出身で、若い頃から山で修行(entraînement)を重ね、修験道の基礎を築いた。

彼は言葉で人を惑わしているとされ(il a troublé des gens en parlant)、伊豆大島へ流罪となり(il déporté)、毎晩島を抜け出しては海上を歩き、富士山を登った。
Il s'est évadé d'une île, et il a fait l'ascension du mont Fuji.
伊豆大島から富士山まで100km。
  • 神道的目的…火山噴火(éruption)や自然災害(le désastre naturel)は神の怒り。
  • 仏教的目的…修行を積み、悟りを開く。
これらの価値観が合わさりできたのが修験道

女人禁制
古代より山岳信仰の対象として神聖な場所である為、女人禁制だった。
  • 神道的側面…
    神道において、生物の身体から離れたものは穢れ(la tache)とみなされる。
    頭髪・爪(ongle)・排泄物(excréments)・血など、特に生理中(elles ont ses règle)の女性はタブーとされた。
  • 仏教的側面…
    性欲(le désir sexuel)などの煩悩を排除する為。
修験道の修行地が険しい山道で、当時は魑魅魍魎(le monstre)の住む危険な場所とされていた為、子供を生む女性は安全の為、近づいてはならない場所とされていた。
現在でも相撲の土俵に女性は上がれないなどの影響が残っている。

富士講
江戸時代に成立した民衆信仰(la religion privée)のひとつで、特に江戸を中心とした関東で流行し、全国へ広がった。
広義には富士山とその神霊への信仰を行う講社全般を指す。
江戸時代、江戸から吉田まで健脚でも片道3日、吉田から頂上まで往復2日の合計8日間。
相当な時間と費用がかかる為、庶民からお金を集めて代表者が祈願する。
これが講。

富士山の現状
近年における最大の噴火は1707年で、2週間以上も噴火が続き、100km以上も離れた江戸の町まで火山灰(cendres volcaniques)が降り積もった。
以後小規模な噴気は見られても大きな噴火は無い。
2013年に世界文化遺産登録。

自然遺産になれない理由
  • La forme…
    世界に類似する円錐形独立峰がいくつか存在している。
    Il y a quelques montagnes indépendantes coniques dans le monde.
  • L'activité volcanique…
    世界により激しい火山活動を記録する山が登録されている。
    Il y a quelques volcans actifs dans le monde.
  • La nature…
    人間によって利用されていない本来の自然という観点から外れている。
    Le mont Fuji n'est plus naturel.
  • 長年、ごみの不法投棄等により管理体制が不十分。

登山
登山シーズンは7月10日から9月10日までで、それ以外の時期は推奨されていない。
年間登山者数は300,000人。
基本的には5合目(2,000m)まではバスや車で行くが、麓から歩いて登る場合は、吉田ルートに江戸時代に使われていた登山道がある。
馬返し(1,450m)から5合目(2,300m)まで3時間、
5合目から山頂まで6時間の計9時間。
宿泊せずに登山及び下山可能だが、初めのうちは山小屋を予約して道中で1泊以上するのが望ましい。
富士山頂は万年雪と言われているが、登山シーズンの7~9月(特に9月)は雪がほとんど溶ける。
富士急行とスイスのマッターホルン・ゴッタルト鉄道(MGB)は1991年に姉妹鉄道提携を結んでいる。


新倉山浅間公園
標高850m
1959年に設置された公園。
園内には650本のソメイヨシノ。
398段ある階段はサクヤヒメ階段と呼ばれ、200mある。
1962年に忠霊塔が設置され、毎年9月に戦没者慰霊祭(la cérémonie pour les morts)が行われる。
鉄筋コンクリート製で高さ19.5m。仏塔(pagoda)ではなく、慰霊碑(monument aux décédés)。


富士山世界遺産センター

冨嶽三六〇
目の前のオブジェは、富士山の標高およそ1,500m以上の姿を1/800のスケールで表現。
かつてこの範囲は信仰の領域とされていた。
これより下方は、麓に暮らす人々が薪や肥料を採取する生活の領域だった。
吉田口登山道では、馬返がその境界地点に当たる。
「冨嶽」は富士山の別称。

御中道回廊
富士山の中腹、木立(森林帯)と毛無(火山性荒原)の境を縫う様に周回する道「中道」を模して作られた。
富士講は、「中道」を時計回りにたどる修行を「御中道」(中道巡)と名付けた。
大沢崩などの難所もあり、経験を積んだ者だけが臨む難行だった。

溶岩洞穴をめぐる信仰
富士山の噴火によって流れ出た溶岩が生み出した溶岩洞穴。
山麓に点在する洞穴は、古より神仏が宿る場として信仰の対象となってきた。
特に溶岩が樹木を飲み込み、これを焼き尽くしてできた洞穴を溶岩樹型と言う。
その壁面は、時としてあばら骨のように見えることがある。
富士講は、こうした溶岩樹型を人間の胎内に見立て、ここを潜り抜けることで生まれ変わりを願う「胎内潜」という修行をした。
五雲亭貞秀(1807~79)の浮世絵「冨士山體内巡之図」には、人々が狭い船津胎内の内部を這いつくばって進む姿や、乳房の様な形の岩から滴る水を母乳に見立てて飲む姿が描かれている。
富士講は、洞穴中の砂を紙に包んだり、岩から滴る「乳」を紙片や布切に浸して持ち帰り、安産のお守りや妊婦の腹帯とした。

吉田胎内
船津胎内から700m程南東、吉田口登山道の近く。
この地に修行の場を開いたのは、丸藤講の一支流、丸藤宗岡講で、1892年の事。
現在、毎年4月29日に「吉田胎内祭」が催され、この日は内部の見学が可能。

女神像の変容
静岡県裾野市の茶畑浅間神社には、10~11世紀に造られた浅間神像2体が祀られている。
共に四面の顔があり、これらは全て女神。
江原浅間神社の神像と同じく、複数の顔を持つ姿で表現されている。
忍野村の忍草浅間神社の女神像は一面の神として表されている。
二体の男神像が付随しており、1315年に造られた。
300年の間に、浅間神の表現方法も大きく変化しているが、その理由は明らかになっていない。

女神と大日如来の習合
吉田口二合目の御室浅間神社に祀られていた尊像。
女神の上部に、大日如来の姿が表されている。
神と仏は本来同一であるとする神仏習合の考え方を色濃く反映している。
こうした考え方のもと、浅間神は12世紀頃には浅間大菩薩と呼ばれるようになった。

木花開耶姫命
吉田や川口の御師は、参詣者に神仏の姿を描いた御影や、牛王と称する護符を頒布した。
また、閉山期の檀家(得意先)への挨拶廻りにもこれらを持参した。
1788年の御影では、富士山上に阿弥陀三尊すなわち仏が描かれている。
1800年のものでは、木花開耶姫命の女神像がこれに取って代わっている。
その後、明治新政府(1868年成立)が採った神仏分離政策により、女神=木花開耶姫命を強調するデザインは益々普及した。

江戸の富士の山開き
下谷坂本富士は、台東区下谷の小野照崎神社の境内にある。
高さ5m、直径16mの塚の正面には、吉田口登山道が再現され、「合目」を示す石柱が立つ。
御中道が中腹を一周し、麓には、修験道の開祖・役行者の石像や古くから富士山の神の使いとされる二匹の猿の石像もある。
江戸の富士塚の典型として、重要有形民俗文化財に指定。
普段は非公開だが、富士山の山開きの前日と当日、6月30日と7月1日の両日は一般開放。

江戸とその周辺の富士
18世紀半ばになると、江戸やその周辺地域の富士講は富士山を模した塚(富土塚)を築くようになった。
これらは単なる富士山の模型ではなく、富士山という霊山そのものの「写」だった。
麓から頂へ向け曲がりくねった道が延び、中腹には御中道が造られ、子供や老人など実際に富士山に登れない者も気軽に登ることができた。
富士講の指導者として知られる食行身録(1671~1733)の弟子高田藤四郎が、江戸郊外の戸塚村(新宿区)に築いた高田富士が、最古の事例だと言われる。
これ以降、20世紀初頭にかけて、関東では多くの富士塚が築かれた。

行衣(ぎょうえ)
御山(富士山)への登山は修行であり、「浄土」(仏の住む世界)と考えられていた山頂への旅でもあった。
その為、死への旅立ちと同じような白い行衣を着た。
行衣は晒木綿の単衣で、死装束と同様に左前に合わせ、帯や頭の被りものも結び目を縦結びとした。
腰に下げた鈴を鳴らし、掛念仏を唱えながらゆっくりゆっくりと頂上を目指した。

丸尾
富士山麓に暮らす人々は、噴火した富士山から流れ出た溶岩流の台地を「丸尾」と呼ぶ。
語源は、溶岩が転がり下る事を表した「転び」。
災害の最前線である丸尾を、人々は噴火を鎮める信仰の場、また再生した木々を伐採する生活の場として利用してきた。

公式サイト


河口湖
面積 570ha
5.7km
富士五湖2番目
最大水深 14.6m
水面標高 830m
富士五湖最低
富士五湖のひとつで、いずれも富士山の噴火で出来た淡水湖(le lac d'eau douce)。
河口湖は富士五湖内で2番目に大きい湖で外周は最も長い21km。
ブラックバス(achigan)釣りが有名で、近隣のコンビにまで釣具を取り揃えている。
昔は天然の流出口が無かった為、大雨の際には増水し、湖畔の村々に洪水被害をもたらした。
一方で、山を挟んだ東側の富士吉田市新倉は透水性の溶岩台地(le terrain de lave)が広がり、水利が乏しかった。
そこで、湖水を新倉方面へ通水させる用水路(canal d’écoulement)の工事が行われ、1865年に完成。
遊泳は禁止されていないが、浜辺(la plage)が少なく、観光船やマリンスポーツや釣りが盛んで、溶岩(la lave)質の足場が悪い場所もあり、推奨されてはいない。


西湖いやしの里根場
西湖の北西に位置する集落では、かつて養蚕業(la sériciculture)が盛んに行われており、光を取り入れ換気をする為に2階に窓を設けた「かぶと造り」の茅葺民家(la maison chaumière)が点在。
1966年の大型台風26号の集中豪雨による土砂災害(éboulement de montagne)で死者94名を出し、集落は壊滅。
2006年に復興が終わり、野外博物館として開放。
2011年に国の登録有形文化財となり保護。


忍野八海
富士山の雪解け水(de l'eau de dégel)が地下の溶岩の間で、20年間の歳月をかけて濾過(filtrage)され、湧水となって8箇所の泉を作る。
「八海」の名は、富士講の人々が富士登山の際に行った8つの源泉を巡礼する八海めぐりに由来する。
仏教には「八正道」と呼ばれる悟りに至るまでの8つの道がある。
正見、正思、正語、正行、正命、正精進、正念、正定の8つ。

外八海
  1. 二見ヶ浦(三重県伊勢市)
  2. 琵琶湖(滋賀県)
  3. 芦ノ湖(神奈川県箱根町)
  4. 諏訪湖(長野県諏訪市)
  5. 榛名湖(群馬県高崎市)
  6. 中禅寺湖(栃木県日光市)
  7. 桜ヶ池(静岡県御前崎市)
  8. 霞ヶ浦(茨城県/千葉県)

内八海
  1. 泉端(富士吉田市)
  2. 山中湖(山中湖村)
  3. 明見湖(富士吉田市)
  4. 河口湖(富士河口湖町)
  5. 西湖(富士河口湖町)
  6. 精進湖(富士河口湖町)
  7. 本栖湖(富士河口湖町)
  8. 四尾連湖(市川三郷町)

小八海
  1. 出口池
  2. 御釜池
  3. 底抜池
  4. 銚子池
  5. 湧池
  6. 濁池
  7. 鏡池
  8. 菖蒲池


久保田一竹美術館

久保田一竹
1917~2003
公式サイト
1937年(20歳)東京国立博物館で「辻が花(つじがはな)」に出会う。
終戦後シベリアに抑留され、死を覚悟するが無事に生還。
Il était détenu en Sibérie, mais il a pu rentrer.
1948年復員後辻が花を研究し、1961年に独自の染色法「一竹染」創業。
1994年人と自然と芸術の三位一体(La Trinité)の当美術館開館。
本館は1,000年を超えるヒバ(cyprès)の大黒柱16本で日本古来の組み上げ技法と西洋のログハウスを併せた独特な技法によるピラミッド型の建築。
新館は内外壁の全てが琉球石灰岩(珊瑚の堆積岩)(des roches coralliennes sédimentaires)でできたガウディ(Gaudi)を想起させる建物。
庭は琉球石灰岩や富士の溶岩(lave)、湧水が見れる。
慈母像窟は、久保田一竹の母を偲び、インドの仏師に彫ってもらった普賢菩薩像と赤子を抱いた女人像の2体を本館北側の清水がこんこんと湧き出る場所に、溶岩で洞窟(grotte)を作り、ここへ安置し、1999年11月8日に開眼式を行った。

とんぼ玉
la boule de verre comme les yeux de la libellule
ガラス玉に色模様を施したガラス工芸品の総称。
最初は信仰や呪術の対象、地位の象徴でもあった。
やがて交易品として貨幣と同等の価値を持ち、交易路を通じて世界各国に広がった。
幼い一竹が心を奪われ「一竹辻が花」の創作に大きな影響を与えた氏のコレクションを展示。

辻が花
室町時代より庶民の小袖として親しまれ、絞りを基調とし描き絵を施した紋様染めの技法。
C'est une technique de la teinture, surtout la teinture du noeud.
安土桃山時代に、辻が花の着物や羽織は武家に寵愛されたが、江戸時代初期にその姿を消す。
理由はより絵画的な細かい描写のできる友禅染の技法が考案されたため。