神奈川県
| 神奈川県 | 横浜市 | 鎌倉市 | 箱根町 | |
|---|---|---|---|---|
| 面積 | 2,400㎢ 43/47 |
437㎢ | 40㎢ | 93㎢ |
| 人口 | 9,200,000人 2/47 |
3,700,000人 | 170,000人 | 11,000人 |
目次
鎌倉
- 歴史
-
1180年から1185年にかけて、国内各地で平氏政権に対する反乱勃発。
市街地は東•北•西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した天然の要塞(la forteresse naturelle)。
周囲の山々は標高100~150m程度だが、標高の低い割には急坂(raide)な山道が多く「鎌倉アルプス」とも呼ばれる。
姫路城のような城塞は、16世紀以降に築城され始める。
姫路城→17世紀初期
大阪城→16世紀後期
1063年、源頼義が奥州を平定(pacifier)して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣の際にご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜にお祀りしたのが、鶴岡八幡宮の起源。
1180年、頼義の玄孫(孫の孫)である源頼朝が鎌倉入りし、由比ヶ浜の八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の所在地に移す。
以後、鶴岡八幡宮を中心に鎌倉の都市計画が進んだ。
1185年、6年にも及ぶ治承・寿永の乱が壇ノ浦で決着し源氏が勝利。
乱の以前、平氏政権は軍事警察権を掌握し多くの知行国を保有。
この為、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(王家、貴族、寺社)により平氏政権排除が企てられた。
しかし、旧勢力に平氏政権を排除する軍事力は無かった。
そこで武士階級に力を借り平家を滅亡に追いこんだ。
平家を滅ぼした源氏は鎌倉に幕府を開き、1192年、源頼朝は征夷大将軍に任命された。 - 鎌倉幕府始期
- 鎌倉幕府始期については3つの説がある。
- 1183年 東国支配権の承認を得た
- 1185年 守護・地頭設置権を認められた
- 1192年 源頼朝征夷大将軍就任
- 武士
-
地方では豪族が開墾した私有地を領地として広げて勢力を伸ばし、朝廷の武官や貴族の警備を通して、中央の武官と交流を結ぶようになり、武士として家来をまとめて武士団を作って勢力を強めていった。
関東では平将門、瀬戸内では藤原純友が武士団を率いて反乱。
関東を中心に興った源氏は、朝廷に取り入った関西中心の平氏を壇ノ浦で1185年に破り、源氏を中心とした武士政権が樹立。
- 鎌倉仏教
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平安後期から鎌倉時代にかけて日本は戦乱の世にあり、社会不安の中で人々は心のよりどころ(support moral)を求めていた。それ以前の「旧仏教」は、厳しい戒律(le précepte)や学問(savoir)や寄進(don)を必要とし、武士や庶民には難解だった。
鎌倉仏教は、誰でも悟りに至ることが出来るという前提のもと、民衆に広く親しまれるようになった。
- 鎌倉に寺が多い理由
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源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政権の中心地となり、権力者や武士が国家鎮護や自分たちの心の拠り所として多くの寺院を建立。
そして禅宗など新しい仏教が幕府の保護を受けて発展。
特に、幕府が重視した鎌倉五山等の禅宗寺院が栄え、貿易や金融で幕府を支えつつ、日本の文化形成にも大きな影響を与えた。 - 1.武家政権の拠点
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鎌倉幕府により貴族中心から武家中心の時代へ。
幕府とその関係者が仏教を深く信仰し、国家安寧や自身の精神的支柱として多くの寺院を建立。 - 2.禅宗の保護と発展
- 鎌倉幕府は中国の南宋から伝わった臨済宗などの禅宗を積極的に保護し、建長寺や円覚寺のような「鎌倉五山」に代表される大規模な禅寺を次々と建立。
- 3.文化・経済の中心地
- お寺は単なる宗教施設ではなく、中国文化の発信源、学校、さらには貿易や金融で幕府を支える経済拠点としての役割も担い、武家文化の発展を支えた。
- 4.庶民の信仰と町の発展
- 幕府関係者だけでなく、商人や庶民も多く住むようになり、彼らもまた自身のお堂や小さなお寺を建てて、鎌倉の町は寺社が点在する賑やかな場所となった。
| 神社 | 寺院 | |
|---|---|---|
| 全国 | 80,000 | 77,000 |
| 神奈川県 | 1,122 | 1,905 |
| 鎌倉 | 40 | 115 |
鎌倉駅東口バス停案内
円覚寺
- 正式名…瑞鹿山 円覚興聖禅寺
- 宗派…臨済宗 円覚寺派
- 寺格…大本山 鎌倉五山第二位
- 本尊…宝冠釈迦如来
- 創建…1282年
- 開基…北条時宗
- 開山…無学祖元
- 由緒
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円覚寺は1282年、北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて元寇の戦いで亡くなった敵味方の諸霊位を供養する為に創建。
数度の大火に遭い、衰退したこともあったが、江戸末期の誠拙和尚が出て伽藍を復興。 - 無学祖元仏光国師
- 無学祖元禅師(1226~86)は、中国に生まれ12歳で出家して修行に励んだ後、かねてより深く禅宗に帰依していた北条時宗に招かれ元寇の真っ只中に来朝し、初めは建長寺住持となった。
- 山門(三門)
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山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、煩悩を取り払う門とされる。
山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊をお参りしなければならない。
現在の山門は1785年開山五百年の時、大用(だいゆう)国師によって再建され、「円覚興聖禅寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜った。
楼上に十一面観音像・十二神将・十六羅漢を祀り、毎年6月18日に楼上で観音懺法(観音様に懺悔をする儀式)が行われる。
また毎年8月には山門を取り巻いての盆踊りが賑やかに行われる。 - 仏殿
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円覚寺の本尊を祀る建物で、関東大震災で倒壊したが、1964年に再建。
本尊は冠を被っており、宝冠釈迦如来と呼ばれる。
華厳の盧舎那仏とも称される。
本尊は1282年、仏殿開堂の際に安座されたが、1563年の大火で焼失、御尊顔のみ救出。
1625年に住持・天甫昌円(てんぽしょうえん)によって仏殿が再建される際に体部が補造された。
その時、本尊両脇に梵天、帝釈天が祀られた。
「大光明寶(ほう)殿」の扁額は1378年、後光厳天皇より賜った。
毎朝の暁天坐禅などがここで行われる。 - 白龍図
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前田青邨(せいそん)(1885~1977)画伯監修
守屋多々志(ただし)(1912~2003)画伯作 - 達磨大師坐像
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寄木造(樹種不明)黒漆塗り
像高52.7cm
作風から14世紀前半、鎌倉時代末期作製。
大変に若々しい青年のような達磨様。
目を大きく見開き、口を強く結んでいる。
先師から継いだ「禅の教え」を中国の地に広めんとする崇高な意志が伝わってくる。 - 無学祖元禅師坐像
- 居士林(こじりん)
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明治の頃より円覚寺では、在家の人の坐禅(居士禅)が盛んになり、山岡鉄舟、鈴木大拙、夏目漱石など多くの居士が参禅した。
1922年にこの濟䕃(さいいん)庵に居士の坐禅道場として居士林が開設されたが、1926年に焼失、早大濟䕃団が中心になり復興運動を起こした。
幸い柳生新陰流の剣道場を柳生基夫氏(徹心居士)が寄付を決断し、1928年にこの濟䕃庵に移築して開単となり、以来80年近く、学生や社会人が中心となって雲水と同じように修行する学生坐禅会、土日坐禅会を運営してきた。
堂内には本尊の不動明王が祀られ、「頭燃を救うが如し」の扁額が掲げられ、心の安らぎを求めて坐禅に来る人を待ち受けている。 - 妙香池
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総門前の白鷺池と並び、円覚寺創建当初から知られた放生池。
1335年頃の円覚寺境内絵図に既に見られる。
今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元。 - 舎利殿【国宝】
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円覚寺の舎利殿には「佛牙舎利」と尊崇されるお釈迦様の歯牙を祀る。
由来は将軍源実朝が宋の時代、中国能仁寺から請来したもの。
この舎利殿は鎌倉にあった太平寺(尼寺・廃寺)の佛殿(鎌倉末〜室町初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的遺構。
関東大震災に倒壊したが、1929年に復元。
内部正面に仏舎利を祀る宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥檀があり、観音菩薩と地蔵菩薩が祀られている。
隣は円覚寺派の厳格なる修行道場。
正月三が日、5月の連休日と11月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、拝観が制限される。 - 白鹿洞(びゃくろくどう)
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円覚寺開堂の日、開山無学祖元禅師の説法を聴こうとして集まった多くの人々と共に、この洞穴より白鹿が群れをなし、禅師の説法を聴いた。
大衆は大いに驚異し、この奇瑞譚により山号を「瑞鹿山」と定めた。
これはお釈迦様が初めて説法を行った鹿野苑の嘉例に擬した。
寺号は「円覚興聖禅寺」というが興聖の号は開山国師ゆかりの地、径山(きんざん)の「興聖萬寿禅寺」に由来。 - 黄梅院
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北条時宗の夫人、覚山尼が時宗追善の為に建立した華厳塔の敷地に円覚寺第15世夢窓国師の塔所として建てられ、国師の門弟方外宏遠が1354年に開創。
後の1368年、室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の遺骨が分骨され足利家の菩提所としての性格を帯びている。
山号は「伝衣山」
本堂には、本尊「千手観音菩薩坐像」の他に「夢窓国師坐像」、室町期のものとされる銅像「千手観音菩薩立像」、木造「聖観世音菩薩立像」が祀られている。 - 方丈
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本来は住職が居住する所を方丈と言ったが、現在は本山行事の中心的な場所となっている。
正面向かって右手の奥に「大書院」「小書院」が配置され、右手前の部分は禅宗寺院の台所である「典座」になっている。
今の方丈は震災後1929年に新築され、1998年に改修工事が行われた。
日常は檀信徒の法要、日曜説教、坐禅会、本山各種研修会、宝物風入、更には講師を招いての夏期講座やチャリティーコンサートなどに使用される。 - 百観音霊場
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百観音霊場の由来は、718年徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされる。
円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、僧・拙叟尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備した。
円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設された。
昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印を頂いていたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わった。
行く先々の霊場で観音様の由来を知り、観音様の御利益にあずかり、観音様を念じながらお参りすると、心が清浄になり安心を得られる。 - 柏槇(ビャクシン)
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向いの大木は円覚寺開山・無学祖元(1226~1286)禅師により植えられた700年以上の樹齢と言われる樹。
幹の中心に樹木医による治療跡が見える。
開山様との縁で2012年に京都南禅寺に若木が移植された。 - 洪鐘(おおがね)【国宝】
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1301年に鋳造された国宝の洪鐘。
北条時宗の子、貞時が国家安泰を祈願して鐘の鋳造を鋳物師に命じたが、鋳造が上手くいかず、江の島の弁天様に7日間参詣したところ、ある夜の夢の中で円覚寺の白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、その通りにしてみると池の底より龍頭形の金銅の塊を発見、それを鋳造してこの洪鐘を造った。
この霊験に感激した貞時は江の島の弁天様を洪鐘の神体として「洪鐘大弁才功徳尊天」と名付けて弁天堂を建立した。 - 円覚寺弁天堂
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執権北条貞時が7日7夜江の島弁才天に参籠し天下泰平、万民和楽を祈り霊夢を感じて大鐘を鋳造(1301年)し、当山に奉納。
あわせて弁天堂を建立し、弁才天を祀り当山の鎮守とした。
以来霊験あらたかにして祈願すれば必ず感応を蒙むと言われて来た。
又、この境地は眺望絶佳にして遠く富士山をも望むことが出来、多くの人々より称賛されてきた。
因みに当弁才天の祭礼は11月28日である。
又、60年毎の己の年に大祭を行い、江の島弁才天と当山との間で盛大に執り行われる。
建長寺
- 正式名…巨福山 建長興國禪寺
- 宗派…臨済宗 建長寺派
- 寺格…大本山 鎌倉五山第一位
- 本尊…地蔵菩薩
- 創建…1253年
- 開基…北条時頼
- 開山…蘭渓道隆
- 概要
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鎌倉幕府第5代執権北条時頼によって1253年に創建された日本最初の禅宗寺院。
当時日本は1221年の承久の乱を経て北条氏の権力が安定。
京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上日本の首府となっていた。
境内は元々「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場(lieu d’exécution)で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺が建っていた。
その名残から、禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく、地蔵菩薩を祀る。
当時日本では禅宗と他宗との兼学である寺院が多い中、建長寺は中国宋朝風の臨済禅だけを修行する専門道場として開かれた。
1293年に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊。
再建を試みるも、度重なる火災で創建当初の建物を失った。
鎌倉時代末期には修復費用獲得の為、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、建長寺船と呼ばれた。
開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、中国の禅僧で、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる境内は中国禅宗様式に倣う。 - 「林禅下天」
※入場券面に記載 -
天下禅林…
「人材を広く天下に求め育成する禅寺」との意。
西の外門(北鎌倉側門)に掲げ我が国最初の禅宗寺院で鎌倉五山第一位の建長寺を象徴する語。 - 総門
巨福(こふく)門 -
受付前の門。
1783年に建立された京都の般舟三昧院(はんじゅうざんまいいん)の門を1940円に移築。
額の「巨福山」は「大きな福をもたらす寺」の意。 - 三門【重要文化財】
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三解脱門の略。
楼上(門の上部)に釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢等を安置し、その下を通ると心が清浄になる。
1775年再建。 - 梵鐘【国宝】
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1255年鋳造。
建長寺創建当時から遺る貴重な鐘。
高さ2.1m。 - 柏槇(びゃくしん)
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和名「イブキ」(genévrier)
蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を建長寺創建時に蒔いたもの。
樹高13m、胸囲6.5m、樹齢約760年 - 仏殿【重要文化財】
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建長寺本尊、地蔵菩薩(天国から地獄に至るまで、すべての生物を救い、成仏させると誓う菩薩)を安置。
現在の建物は4代目に当たり、1647年に東京の増上寺より徳川二代将軍秀忠夫人崇源院(お江の方)の御霊屋を移築したもの。
もともと霊廟建築として造られた為、一般的な禅宗の仏殿に見られる入母屋造ではなく、寄棟造である。
僧侶が儀式の際に使用する靴が収納されている。
中央の木造地蔵菩薩坐像は室町時代(14世紀)制作。 - 法堂(はっとう)【重要文化財】
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昔は388人の僧侶がいて、全員がこの法堂で住職の説法を聞いた。
現在は法要、講演などに使われており、修行僧は西来庵(せいらいあん)で修行している。
建物は1814年に再建。
関東最大の法堂。
迷いの中から救い悟りを得るために偉大な働きを持つ観音、千手観音を本尊とする。
天井画は小泉淳作(1924-2012)の雲龍図で天井に直接描かれたものではなく、別に制作された絵を掲げた。
氏は神奈川県鎌倉市生まれで、建長寺の雲龍図は2000年に製作された。
釈迦苦行像は、パキスタンから寄贈されたレプリカ。 - 唐門【重要文化財】
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方丈(龍王殿)の正門。
もとは、崇源院御霊屋(現仏殿)の唐門で仏殿同様1647年に移築されたもの。 - 方丈(龍王殿)/庭園【名勝史跡】
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昔、住職が居住する場所だった。
1732年建立、元は皇室の御位牌を安置する場所だった。
総門同様1940年に京都の般舟三昧院の本殿を移設したもの。
宝冠釈迦如来が祀られている。 - 得月楼
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月の景趣を十分に眺めるという意味。
池辺に2階の楼閣形式で作成された中国の園林を模して日本的な景観を生み出した。
玄関ともども2003年の建長寺創建750年にあたって約590年ぶりに復興された。 - 虫塚
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2015年6月4日(虫の日)に養老孟司氏(médecin)が建立。
命を奪われた昆虫を供養する為の慰霊碑。
デザインは建築家の隈研吾氏。 - 半僧坊
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建長寺の鎮守「半僧坊大権現」を祀る御堂。
1890年に当時の住持が静岡県の方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益がある。
虫塚から半僧坊までは約200段の階段を登る。
さらに半僧坊から約150段の急な山道を登ると、富士見台の展望台へたどり着く。
- 承久の乱
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平安時代末期の保元の乱、平治の乱により貴族階級の衰退と武士階級の台頭があり、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立。
東日本を勢力下に置いた鎌倉幕府と西日本の支配を保った朝廷による二元統治となり、朝廷は新興の武家政権への反感が募った。しかし、朝廷の身内ともいえる清和天皇の血を引く源氏将軍が鎌倉幕府を率いている間は武力行使には至らなかった。
1203年、第2代将軍源頼家が北条時政に幽閉され翌年暗殺、第3代将軍源実朝も1219年に鶴岡八幡宮の前で頼家の子公暁に暗殺された。これにより、三代続いた源氏将軍が断絶し、北条氏が執権職にもかかわらず鎌倉幕府の実権を握った。
朝廷は武家政権打倒と日本全土統治回復を目指すため、挙兵するが幕府に鎮圧される。
鶴岡八幡宮
- 1063年に京都から由比ヶ浜へ引っ越し
- 1180年に由比ヶ浜から現地へ引っ越し
- 質実剛健な武士の精神(l'esprit austère)が広がる
- 1828年再建
- 武運(un sort des armes)の神様
- 歴史
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源頼義が奥州平定に向かう際、京都の石清水八幡宮に加護を祈願した。
1063年、奥州平定後、鎌倉に帰った頼義は、石清水八幡宮を由比ガ浜に祀った。
これが鶴岡八幡宮の起源。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝は1180年、鎌倉に入るとすぐに由比ガ浜の八幡宮を現在の地に遷し、鎌倉の街づくりの中心とした。
以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まった。当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風(L’esprit austère)は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となった。
現在の本殿は1828年、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、若宮とともに国の重要文化財に指定。
鶴岡八幡宮が京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜に祀ったように、八幡宮の移動の際に、鳩が道案内をした。 - 段葛(だんかずら)
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鶴岡八幡宮参道、ニの鳥居から八幡宮までの車道より一段高い歩道のこと。
終着点には三の鳥居があり、八幡宮境内へ至る。
鎌倉時代、源頼朝などの武士が鎌倉に住むにつれて山を削り、平地を増やして屋敷を建てた。
その為山の保水力が低下し、雨のたびに若宮大路に土砂や雨水が流れ込み、道がぬかるんで歩きづらくなった為、道から一段高い道を建設したのが段葛。
また、鎌倉幕府が攻め込まれるのを防ぐ為に、一の鳥居から八幡宮に向かうにつれて道幅が徐々に狭くなっており、遠近法によって実際の距離よりも長く見える。
鳥居は1923年の関東大震災で倒壊し、1936年に朱塗り鉄筋コンクリート造で再建。 - 本宮(上宮)
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応神天皇…第15代天皇。
比売神(ひめがみ)…神道の女神。
神功皇后(じんぐうこうごう)…応神天皇の母。
八幡三神を祀る。八幡神は武運の神。八幡宮は全国に44,000社あり、大分県の宇佐神宮を総本山とする。
随身門には随身(=平安時代以降、貴人護衛にあたった武人)が鎮座。 - 丸山稲荷社
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商売繁盛のご利益。
当宮で一番古い室町時代中期(15世紀)の建物。 - 宇佐神宮遙拝所
- 八幡宮の総本宮である大分県の宇佐八幡宮をここから参拝する。
- 舞殿
- 静御前が義経を慕い、心を込めて舞った若宮廻廊跡に建ち、下拝殿とも言う。
- 湘南
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10kmの海岸線を有する2,450㎢の相模湾を望むビーチ。
サーフィン(le surf)やヨット(la voile)も人気。
銭洗弁財天 宇賀福神社
- 本宮祭神…市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
- 奥宮祭神…弁財天
- 創建…1185年
- 由緒
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鎌倉幕府初代源頼朝(1147~1199)は、平家を討伐して1183年に幕府を樹立したが、永い戦乱で国民の生活は苦しくなっていた。
これを憂いた頼朝は、人々の苦しみを取り除こうとして、神仏の加護を願って、日夜お祈りを捧げた。
そのうち、1185年、巳の年、巳の月、巳の日、源頼朝に宇賀福神の夢のお告げがあった。
「西北の谷に湧き出す霊水で神仏を供養せよ。天下は泰平になるであろう」
お告げの通りにこの地に湧き水があったので、早速宇賀福神を祀り、その水で神仏の供養を行うと、国中は静かになり、人々は富み栄えるようになりった。
これが創建の由来。
その後、1257年巳の年の仲秋に、時の執権北条時頼は、頼朝の信心を受け継いで、隠れ里の福神を信仰した。
その時、時頼は「辛巳(かのとみ)」「なる」「かねの日」が全ての人々に福徳が授けられる日だと調べ、この日に人々が参詣することを勧めた。
また、この湧き水でお金を洗って使うと、何倍にもなって返ってくると信じられている。
鎌倉五名水の一つ。 - 『水』おみくじ
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鎌倉五名水におみくじを浸すと10数秒で文字が浮き出てくる。
本社裏手の龍神様の神水に漬ける。
佐助稲荷神社
- 宇迦御魂命(ウカノミタマノミコト)…穀物を司る神様
- 大己貴命(オオナムチノミコト)…国造りの神様
- 佐田彦命(サルタヒコノミコト)…先導の神様(導きの神様)
- 大宮女命(オオミヤヒメノミコト)…きれいな言葉で他人との間を仲良く保つ神様
- 事代主命(コトシロヌシノミコト)…大国主命の子神
- 由緒其の一
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源頼朝(1147~1199)は平治の乱(1160)で敗れ伊豆へ流され、後に北条政子と結婚。
頼朝の病床にて「かくれ里の稲荷」と名乗る翁が夢枕に立ち平家挙兵を促した。
頼朝は1180年8月に北条氏など東部の武士と協力し平家打倒の挙兵に踏み切る。
1185年、弟の範頼、義経らに命じ「壇之浦の戦い」で平家を滅ぼす。
頼朝は1192年に幕府を開き北条時政らの縁者や大江広元などの京都出身者を側近にし、幕府を運営。
彼自身ほとんど鎌倉を出ることはなかった。
社伝によると1190~99年、頼朝が畠山重忠に命じて「かくれ里の祠」を探し当て稲荷神社を再建させた。 - 由緒其の二
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頼朝は若い時、兵衛佐(ひょうえのすけ)であったので佐殿(すけどの)と言われており、その佐殿を助けた神と言うことで佐助稲荷と言われる。
佐助稲荷神社は頼朝が旗揚げの後征夷大将軍まで上り詰めたことから、別名「出世稲荷」と呼ばれ信仰を集めている。 - 由緒其の三
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当時、開山良忠上人は佐介ヶ谷に住んでいた。
ある時、子供に虐められていた子狐を助けた。
すると夢に親狐が現れ、悪病が流行る事を告げ、子狐を助けたお礼と共に薬種袋を残していった。
翌朝枕元に薬の元である種子があり、上人はお告げに従って種子を蒔くと3日で成長し、この薬草で多くの人を治した。
これは佐助稲荷のご利益だと考え、以来佐助稲荷に参詣するのが良いと人々に教えた。
このことから、佐助稲荷では一対の白狐を供えて願を掛けるようになった。 - 本殿
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拝殿後ろの階段を上った処が本殿。
本殿は宮司以外は誰も入場不可。
1895年再建。 - 霊狐泉
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佐助稲荷は昔より麓の田畑を潤す水源の地で、境内の片隅には霊狐の神水と称される湧き水があり、生命の源であるこの水源を霊狐泉として讃えており今も絶えず湧き出ている。
ペットボトル等に入れて持ち帰り可。
ただし、飲料不可。 - 縁結び十一面観世音菩薩
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佐助稲荷山への参道の登り口の社務所の隣に木造十一面観世音菩薩が祀られている。
縁結びの十一面観世音菩薩様で、徳川時代、良縁に恵まれなかった美しい姫君、赤松幸運が出家して現世の若い男女に良縁があるようにと祈願して彫った。
毎年5月18日は十一面観世音菩薩様の御開帳があり(通常は非公開)、「般若心経」と「観音経」を宮司が読経。 - 祠
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境内には人々から奉納された古い石の祠が沢山あり、石祠内には神の遣いである狐が安置されている。
苔むした祠の上に御塚と呼ばれる自然の岩があり、白狐が祀られ祠を守護する。
まだ社を持たない時代に神が宿る岩として信仰を受けた神聖な場所。 - 鳥居
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本殿の遠くから一の鳥居、二の鳥居と言い複数の鳥居をくぐるごとに神聖さが高まる。
佐助稲荷神社はとても幻想的な空気の中に朱色の鳥居が49基建っている。 - 朱の鳥居…1基500,000円から
- 祈願幟…1本5,000円から(設置まで1ヶ月〜設置から1年間)
- 祈願幟…1対10,000円から
報国寺
- 創建…1334年
- 宗派…臨済宗建長寺派
- 本尊…釈迦如来坐像
- 開山…天岸慧広(てんがんえこう)(仏乗禅師)
- 開基…足利家時(尊氏の祖父)
- 由緒
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足利、上杉両氏の菩提寺として栄えた。
仏乗禅師は、中国から招かれた円覚寺の開山・無学祖元に師事し、後に中国へ渡って修行した高僧。
本尊の釈迦如来坐像は仏師宅間法眼の作。
他に1347年作の開山仏乗禅師像や迦葉尊者像などを御堂に安置し、さらに開山の著書「東帰集」や、開山使用の木印は、鎌倉国宝館に保管。
休耕庵という塔頭の跡に2,000本の孟宗竹が生え、現在の「竹の庭」になった。 - 迦葉堂(Kashodo)
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1978年に坐禅堂として造られたお堂。
お釈迦様の十大弟子の一人、迦葉尊者と開山(初代住職)仏乗禅師天岸慧広の像を安置。 - やぐら
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やぐらは、鎌倉地域に多く存在する横穴式の墳墓。
報国寺のやぐらは、開基・足利家時と4代鎌倉公方・足利持氏の嫡子・義久の墓。 - 鐘楼
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報国寺で最も古い建物で、1757年に造られた。
かつては本堂をはじめ他の建物も茅葺であり、往年の報国寺の姿が偲ばれる。 - 釈迦如来坐像
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南北朝時代(14世紀)の仏師・宅間法眼の作。
座っている蓮華座から衣が長く垂れる姿が特徴。
釈迦如来は禅宗寺院で最も大切な仏。
本像は坐禅の時の手の形である禅定印を結んでおり、瞑想している姿を表す。 - 迦葉尊者立像
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迦葉(Kasho)尊者は釈迦の十大弟子の一人で、頭陀(ずだ)第一と称された。
頭陀とは頭陀行の事で、衣食住の欲望を捨てて修行に励むことを指す。
釈迦の後継者と言われることもあり、禅宗では釈迦に次いで第二祖と言われるほど大事にされている。
報国寺の迦葉尊者像は衣に華やかな装飾が施され、笑みを浮かべた表情をしている。 - 聖観音菩薩立像
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報国寺本堂内向かって右に安置されている聖観音菩薩立像は、鎌倉三十三観音の十番札所本尊。
観音菩薩は様々な姿に変身し、生きる人々を救いながら如来になる為に修行している仏。
聖観音菩薩は頭が1つと腕が2本の基本の形で表され、本尊は左手に蓮華の蕾を持ち、右手はそっとその蕾を開こうとする動作を示している。
通常は非公開だが、年に3回御開帳を行う。 - 普賢菩薩坐像
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1814年に仏師三橋永助の造像。
16cm程の像で白い像に乗り、手に如意を持つ。
豊かな表情や衣に施された装飾などからは優美な印象が見受けられる。
鎌倉十三仏第四番札所本尊として本堂右奥に安置。 - 宅間
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報国寺と旧華頂宮邸がある奥深い谷戸の旧名。
鎌倉幕府の絵師、宅間為行がこの地に住んでいたことから、この名が付いた。
為行の父・為久は、源頼朝の命を受け京都から来た人物で、頼朝の父・義朝の菩提を弔う為に創建された勝長寿院の壁画を描くなど、幕府と強い繋がりを持っていた。
1334年の報国寺創建に深く関わった上杉重兼の一族は「宅間上杉氏」と呼ばれ、この谷戸に屋敷を構えていた。
鎌倉幕府滅亡後、上杉氏は、関東の支配を補佐する関東管領の職に代々就いた。
この谷戸は当時の政治や文化に関わりを持つ人々が居住する空間であった。
杉本寺
- 坂東・鎌倉三十三観音霊場第一番
- 鎌倉二十四地蔵霊場四番・六番
- 創建…734年
- 本尊…十一面観音菩薩
- 宗派…天台宗
- 由緒
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734年、聖武天皇の后である光明皇后の御願により、藤原房前(ふささき)、行基菩薩によって建立。
御本尊は秘仏十一面観音三尊堂殿- 734年…行基(ぎょうき)菩薩作
- 851年…慈覚大師円仁(えんにん)作
- 986年…恵心僧都(えしんそうず)源信作
また、信心無くして馬で寺の前を通り過ぎる者は落馬するというので、建長寺開山大覚禅師が祈願し自らの袈裟で行基菩薩が彫られた十一面観音様のお顔を覆ったところ落馬する者がなくなった。
本堂正面に源頼朝公寄進運慶作の前立本尊十一面観音を安置。
杉本寺公式HP堂内案内 - 杉本寺茅葺屋根葺き替え大勧進
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当山は鎌倉でも数少ない茅葺屋根の本堂、仁王門を有する。
以前は20年もつと言われた茅葺屋根は、近年の温暖化や度重なる暴風雨により茅の痛みが早く、およそ15年毎に葺き替え工事を必要としており、茅葺屋根の維持保存も年々難しくなっている。
2009年8月に葺き替え工事を実施した仁王門だが、屋根がだいぶ痛んでおり、2025年度に総工費20,000,000円を予定して葺き替え工事を行う。
光明寺
- 創建…1243年
- 本尊…
- 宗派…浄土宗
- 開山…然阿良忠(ねんなりょうちゅう)上人
- 開基…北条経時(つねとき)
- 由緒
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材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院。
開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府第四代執権北条経時で、1240年鎌倉に入った良忠の為に、経時が佐助ヶ谷に寺を建てて蓮華寺と名付け、それが1243年に現在地に移り光明寺と改称。
1698年建立の本堂は、国指定重要文化財。
また、1847年建立の山門は、県指定重要文化財。
ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模。
当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成。
10月12日から15日の間に行われる「十夜法要」は今でも夜市がたち大勢の人で賑わう。
高徳院
- 創建…1252年頃
- 本尊…阿弥陀如来
- 宗派…浄土宗
- 開基…不詳
- 歴史
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国宝銅造阿弥陀如来坐像創建についての資料が乏しく(Il ne reste pas assez de documents)明確な建立年は不明。
一説によると(selon une thèse)1252年造立開始。
元は密教系の僧が住職を務め、後に臨済宗に属し、江戸時代以降、浄土宗の寺社となり、この時期から「高徳院」と称する。
大仏は当初大仏殿内に安置されていたが、1334年と1369年の台風で倒壊。
以降大仏殿の再建は行われなかった。
大仏は江戸中期に僧・祐天が修復。
大仏は高さ11m(台座を含めると13m)、重量120t
最初は木造で、後に中国から銅貨を輸入し、青銅に加工して使用。 - 阿弥陀如来
-
西方極楽浄土で、死者を極楽浄土へと導く仏。
浄土とは、仏の住む国で、一切の煩悩や穢れが無い世界。
国宝銅造阿弥陀如来坐像は、1252年から10年かけて造立。
制作には、僧浄光が勧進した浄財が当てられたという。
尊像を収めていた仏殿は、1334年と1369年に大風で損壊し、15世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。
台座を含む総高約13.4m
仏身高約11.3m
重量約121t
- 三十二相八十種好
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仏の姿の32の特徴を表す。
見てすぐわかる32相と、微細な特徴である80種好を併せたもの。
宗教的な理想を表す。 - 三十二相
- 足下二輪相(そくげにりんそう)
- 足裏に輪形の相が現れている。仏足石。
- 手足指縵網相(しゅそくまんもうそう)
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手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある(Il a les mains palmée)。
厳しい修行で泳いだため。衆生を救い上げる。 - 毛上向相(もうじょうこうそう)
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体の全ての毛の先端が上になびき、右巻き。
螺髪は昔インドの階級の高い人たちの髪型に由来。 - 丈光相(じょうこうそう)
- 後光。
- 白毫相(びゃくごうそう)
- 眉間に右巻きの白毛があり、光明を放ち世界を照らす(pour éclairer le monde)
- 八十種好
- 福耳
長谷寺
- 正式名…海光山 慈照院 長谷寺
- 創建…736年
- 本尊…十一面観音
- 宗派…浄土宗系単立
- 開基…藤原房前
- 開山…徳道上人
- 歴史
- 721年、僧・徳道が楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊として大和(奈良県)に長谷寺を建立した。そしてもう1体は、衆生(しゅじょう)救済(=すべての生き物)の誓願が込められ、海中へと奉じられた。15年後の736年、相模国の長井沖(現・横須賀市長井=三浦半島)に漂着し、大和長谷寺の開基・藤原房前(ふささき=藤原鎌足の孫)によって尊像は鎌倉に安置し、長谷寺が開かれた。本尊の十一面観音像は木彫仏としては日本最大の高さ9.18m。団体はガイドを除いて30名以上で適用。
- 本堂(観音堂)
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本尊である十一面観世音菩薩像について、721年、大和(奈良県)長谷寺の開山である徳道上人の本願に基づき、稽文會(けいもんえ)、稽首勲(けいしゅくん)と名乗るふたりの仏師(不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃく)と地蔵菩薩の応化身)により楠の巨大な霊木から二体の観音像が三日三晩にして造顕された。そのうちの一体が大和長谷寺お本尊となり、残る一体は有縁の地における衆生済度の誓願が込められ、開眼供養を修した行基菩薩によって海中へ奉じられた。
その後、736年に至り、尊像は相模国の長井浦(横須賀市長井)の洋上に忽然と顕れ、その旨を受けた大和長谷寺の開基藤原房前(藤原鎌足の孫)によって尊像は鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となった。錫杖(しゃくじょう)を右手に執り、岩座(金剛宝盤石)に立つ尊容は長谷寺に祀られる十一面観音像特有の姿として「長谷寺式」と呼ばれる。 - 阿弥陀堂
- 長谷誓願寺(現亡)の旧本尊という由緒を持つ当山の阿弥陀如来坐像は、伝承によれば鎌倉幕府所代将軍源頼朝公の厄災消除を祈願し造立された尊像であるといわれ、後年「厄除阿弥陀」として諸方からの信仰をあつめた。上品上生の印相を示す丈六の阿弥陀像は鎌倉でも稀有な存在と言え、鎌倉六阿弥陀のひとつにも数えられる。
- 地蔵堂
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観音信仰ならびに、日本における庶民信仰の代表的阿なひとつが地蔵信仰。
当山では観音堂内に祀られていた「延命地蔵尊」(現観音ミュージアム収蔵)に加え、「福壽地蔵」を祀る地蔵堂、及び周囲の千体地蔵尊をもって地蔵菩薩の霊域とし、諸霊の供養としている。 - 大黒堂
- 1412年の銘を持つ神奈川県でも最古の尊像として、現在は観音ミュージアムに収蔵されている。これに代わり、堂内には「出世開運授け大黒天」や「さわり大黒」が祀られ、鎌倉、江の島七福神巡りの一つとなっている。
- 弁天堂、弁天窟
- 当山の弁才天像は、弘法大師が廻国修行の折、当山の岩窟に参籠し感得して刻んだ尊像。江戸時代には「出世弁才天」の名で知られた。現在その尊像は観音ミュージアムに収蔵され、代わりに福徳弁才天が祀られている。また弁天窟の壁画には、弁財天とその眷族である十六童子が刻出されている。
- 稲荷社(かきがら稲荷)
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観音像の渡海縁起にまつわる伝承によると、海を漂う観音像は尊体に付着した「かきがら」の導きにより当地へ流れ着いたと伝えられている。
祭神は当初「荒神」であったと伝えられているが、後年、稲荷社として再興された当社は、観音像の漂着した6月18日を御縁日と定めている。 - 経蔵(転輪蔵)
- 内部に回転式の書架を備える経蔵を「転輪蔵」と呼ぶ。書架を一回転させることで、中に納められている一切経(大蔵経)(soutra)をすべて読踊した功徳(bienfait)が得られるといい、また堂内にはマニ車が十八基設置されている。人々が書き終えた写経も経蔵内に納められている。
- 鐘楼
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当山の古鐘は1264年の銘を持ち、鎌倉でも常楽寺、建長寺に次ぎ三番目に古い梵鐘。また、「長谷寺」の寺号が確認できる当山最古の什宝でもあるため、現在は観音ミュージアムに移管(常設展示)。
ちなみに、現在の梵鐘は1984年に新鋳されたもので、歌人佐佐木幸綱の短歌が寄せられている。 - 写経
copier des soutras - 日本最古の写経は673年、奈良の川原寺にて行われたという記録が「日本書紀」に残っている。奈良時代には、国立の写経所で国家的に多量の良い写経が作られた。鎌倉時代以降は、印刷技術の向上により実用面の大規模な写経は行われなくなったが、信仰のため仏道修行としての写経は続けられ、今日に至っている。
- 千手観音
- 観音の王。千本の手と掌に目が付いている。手は多くの人々の救済。掌の目は人々を教え導く知を表す。
- 宇賀神
- 日本古来の神。雨を降らし、穀物を育て、我々に食べ物の恵みをもたらす神様。蛇の姿をしており、水と富みのご利益から弁財天と一体の神として祀られている。
| 仏足石 | 釈迦の足跡を石に刻み、信仰の対象としたもの。 | |||
|---|---|---|---|---|
| 足下安平立相 (そくげあんびょうりゅうそう) |
足が大きく平らで、土踏まずが無い。 | |||
| 足下二輪相 (そくげにりんそう) |
足の中央に二重の輪が描かれ、そこから放射状に線が画かれる。 | |||
| 長指相 (ちょうしそう) |
手の指同様、足の指も長い。 | |||
| 手足指網相 (しゅそくしまんそう) |
指と指の間に水かきの様な網がある。魚の絵で網を表現。 | |||
江の島
| 江の島 | 藤沢市 | |
|---|---|---|
| 面積 | 0.4㎢(40ha) | 70㎢ |
| 人口 | 354人 | 440,000人 |
- 由緒
-
神奈川県藤沢市
島1周4km
標高60m
古来は引き潮(la marée descendante)の時のみ対岸と地続きとなって歩いて渡ることが出来たが、1923年の関東大震災で島全体が隆起(se soulever)して以降は、地続き傾向にある。
古来より修行の地として、
奈良時代に役小角、
平安時代に空海、
鎌倉時代に一遍、
江戸時代には木喰が参籠して修行した。
1182年に源頼朝の祈願により僧文覚(もんがく)が弁才天を勧進し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝。
鎌倉時代以降も、各時代の権力者から聖域として保護、参詣された。
弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされていた為、歌舞伎役者や音楽家なども多数参拝。
江戸時代後期には江戸庶民の行楽地(le site touristique)として栄え、寺社参拝の建前の下、景勝地を訪ね、名物料理を味わう等の側面が強くなった。
明治維新の廃仏毀釈により、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館へと転業。
1887年の鉄道開通、1902年の江ノ電開通により、鎌倉と江の島を結ぶルートが確立し、修学旅行等で賑わう。
大正時代には新たに児玉神社が祀られた。
1923年の関東大震災により島全体が2m隆起し、島内のほとんどの建物が倒壊。
1964年の東京オリンピックでヨット競技会場となり、島の東部を大幅に埋め立て、ヨットハーバー(port de plaisance)湘南港を建設し、これにより江の島の陸地面積は1.5倍ほどに拡大。
江の島周囲では磯釣り(pêche de rivage)、潜水(ダイビング)(plongée)などが行われる。
イセエビ、サザエ、アワビが獲れ、ワカメ養殖も行われる。
- 江の島弁天橋
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橋長389m
初めて江の島に木橋がかかったのは1891年。
それまでは潮が満ちてくると、片瀬浜から江の島へ渡るには舟か人足の背負いに頼るしかなかった。
車道の江の島大橋(橋長324m)は、1964年に開催された東京五輪に合わせて造られた。
- 江の島ヨットハーバー
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1964年に開催された第18回オリンピック競技大会のヨット競技会場として造られた日本初の競技用ハーバー。
また、2021年の第32回大会ではセーリング競技会場に。
日本はメダル獲得ならず。
フランスは女子470級で銅メダル。
女子RS:X級で銀メダル。
男子RS:X級で銀メダルを獲得。
江の島ヨットハーバーには約1,000隻のヨットが収容されており、2014年6月に新しい江の島湘南港ヨットハウスも完成し、セーリングを楽しむ人々で賑わっている。
- 旧岩本院(岩本楼)
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江戸時代までは岩本院と言われ、弁天社の本宮をあずかった一山の総別当とも言われる由緒ある院だった。
弁天信仰が盛んだった江戸時代には、勅使、将軍、大名などの宿泊所として栄えた。
ちなみに歌舞伎の白浪五人男に登場する弁天小僧は、岩本院の稚児がモデルであると言われている。
- 江島神社
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552年、神託に基づき、欽明天皇の勅命により、江の島南の洞窟に宮を建てたのが起源。
欽明天皇は聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていた。
神仏習合により金亀山与願寺と称する寺となった。
江の島島内三箇所のお宮(奥津宮、中津宮、辺津宮)を総称して江島神社という。
江戸時代までは弁才天を祀る。
明治の神仏分離後、宗像三女神を祀る。
1868年の廃仏毀釈により三重塔の他、多くの仏教施設や仏像等が破壊。
1872年には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称。
同時に僧侶は全員僧籍を離れ神職となり、宿坊は旅館「岩本楼」と改称。 - 辺津宮(下之宮)…田寸津比賣命(タギツヒメノミコト)
-
土御門天皇(1206年)源実朝が創建。
弁天堂には日本三大弁天の妙音・八臂弁財天御尊像を始め十五童子像・後宇多天皇の勅額・弘法大師の護摩修法による弁財天像他が奉安されている。
宗国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・御神木の結びの樹等があり、八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座。 - 中津宮(上之宮)…市寸島比賣命(イチキシマヒメノミコト)
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文徳天皇(853年)慈覚大師が創建。
現在の社殿は1689年の造営で1996年の改修により格天井には花鳥画が施され彫刻等が復元。
境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある。 - 奥津宮(御旅所・本宮)…多紀理比賣命(タギリヒメノミコト)
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1842年再建。
源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の力石・鎌倉四名石の一つ亀甲石・御神木・山田流箏曲開祖山田検校像等がある。 - 龍宮(わだつみのみや)
- 龍神を祀る。9月9日例祭。
- 岩屋
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波の侵食で出来たもので、第一・第二霊窟からなり、150m深奥が江島神社発祥の地。
552年にこの地に鎮座。
春季大祭…初巳例大祭…4月初の巳の日
秋季大祭…古式初亥祭…10月初の亥の日 - 青銅の鳥居
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古くは木製だったが、1821年に青銅製で再建。
両柱には数多くの寄進者名が彫られ江戸時代の信仰の広さを今に伝える。
正面の額には「江島大明神」と書かれており、その特徴的な筆跡は弁財天の遣いである蛇を象っている。
鎌倉時代にモンゴル軍が襲来した文永の役(1274)で敵側が退散した事への神恩感謝として第91代後宇多(ごうだ)天皇が奉納した額を写したもの。 - 瑞心門
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竜宮城を模した神門。
参拝者が瑞々しい心でお参りができるようにとの思いで命名。
門の両側には日本画家・片岡華陽画伯による唐獅子図が飾られている。
門をくぐった正面にある弁財天童子石像は2002年に江島神社御鎮座1450年を記念して建てられた。 - 天女と五頭龍
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昔、鎌倉の山奥にある底なし沼(le marécage sans fond)に五頭龍が住み着き、子供を生贄(le sacrifice)に取る等して村人を苦しめた。
ある時、海上に雲が垂れ込め、天地が激しく揺れ動き、天女が現れた(Les nuages sont bas sur mer, le ciel et la terre ont ballotté, et une nymphe céleste a apparu.)。
雲が晴れると海上に忽然とひとつの島が出来ていた。
これが現在の江の島。 -
美しい天女に五頭龍は結婚を申し込むが、天女は五頭龍の悪行が止むまではと断る。
その後、五頭龍は改心(s’amender)して結婚。
この伝説の天女が江の島に祀られている弁才天。 -
約3,000万年前(il y a trente millions ans)、神奈川県下は海底で、江の島付近は静かな海であった為、砂や泥(boue)が厚く積もった(s’accumuler)【葉山層】。
約2,500万年前に葉山層が隆起(se soulever)し、丹沢から江の島を通り、三浦半島、房総半島まで続く長い山脈(chaîne de montagnes)の様になった。
その後、葉山層は削られ、その上の次々と新しい地層(strate)が積もった。
岩屋も葉山層から出来ている。
江の島が海面に姿を現したのは7~8万年前。 - 福石
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杉山検校(けんぎょう)は1610年伊勢に生まれ、幼くして盲目になった。
鍼の治療で身を立てようと江戸に出て、鍼医の師匠に入門したが、不器用な為、術を習得する事が出来ずに悩んでいた。
そこで神仏にすがり上達したいと思い、江の島に籠り21日間の断食をして祈願。
満願の日の帰り道にこの石につまづいて倒れ、気を失う。
すると夢の中で美しい5色の雲に乗って弁財天が現れたので、手を合わせて拝もうとしたところ、何やらちくちくと身体を刺すものがあった。
そこで夢から覚め、手に取ってみると松葉の入った竹の管だった。
これにヒントを得て管鍼の術を考案してその元祖となり、それによって徳川綱吉の病を治療し、関東総検校に栄進した。
両国に江島杉山神社がある。 - 杉山和一総検校之像
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杉山和一は像の建つこの場所で江島弁財天の御神徳を頂き、立身出世し、鍼術を以て世の中に多大な功績を残した。
心願成就・病気平癒・学業成就・芸能上達・鍼灸按摩学術向上
身体の気になる所と同じ部位に触れ、心身を和め癒す。
古くからこの地で物を拾い弁財天にお参りすると福を授かると言われている。 - 辺津宮
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江島神社は辺津宮、中津宮、奥津宮の三社の総称であり、それぞれの社で海を守護する三姉妹の女神を祀る。
辺津宮は、田寸津比売命(タギツヒメノミコト)を祀る。
1206年に鎌倉幕府三代将軍源実朝により創建され、1675年に再建、1976年の大改修により現在の社殿が造営。
社殿の屋根には江島神社の社紋「向かい波に三つ鱗」を見ることができる。
高低差のある江の島では一番下に位置していることから、明治時代までは「下之宮」と呼ばれていた。 - 奉安殿
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江の島弁財天への参詣の歴史は古く、広島県の宮島、滋賀県の竹生島と並び「日本三大弁財天」として篤く信仰されてきた。
弁財天は当初武人守護の神として信仰を集めたが、時代が進み泰平の世になると次第に「芸能・音楽・知恵・福徳の神」として信仰されるようになった。
2015年に改修された奉安殿では、勝運祈願の神として信仰される八臂弁財天や音楽芸能の上達を願う人々の信仰を集める妙音弁財天の御尊像を祀る。 - 八坂神社
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建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)は八岐大蛇を退治した事でも知られる日本神話の英雄で、江島神社の三女神と縁の深い関係にある。
神仏習合時は牛頭大王と呼ばれ、疫病をはじめとするあらゆる災難からお守り下さる神様で、江島神社に祀られる三女神の父神でもある。
御神体である建速須佐之男命の木像は初めは腰越の小動(こゆるぎ)神社に祀られていたが、大波によって海へ流され、後に江の島の漁師によって海中から引き揚げられた。
毎年7月第2日曜日には、この伝承を再現する「江の島天王祭」が行われ、御神輿を担いで海に入った後、江ノ島から腰越までを練り歩く。
現在の社は江島神社御鎮座1450年記念事業の一環として2001年に改修。 - 宋国伝来の古碑
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1204年に宋に渡った源実朝の使節良真が慶仁禅師より江の島に因んで授けられたと伝えられ、碑面の四辺を細い線で刻画し、上方に左右から双龍形を陽刻し、大日本国江島霊迹建寺之記と書かれているが、碑名は磨滅して読むことができない。
この為、1701年に杉山検校の門弟・島岡検校が雨避けを寄進した。 - 猿田彦大神
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この碑は庚申塔の一つで、1832年に建てられた。
碑の執筆者である阿部石年は、藤沢宿の儒者として、また書家として知られ、1835年に没し、その墓碑は鵠沼の万福寺にある。
この碑に書かれている「猿田彦大神」とは、古事記・日本書紀の神話に登場する神で、天孫「ににぎのみこと」降臨の際、高千穂までの道案内を務めた神と言われ、中世以降「庚申信仰」や「同祖神信仰」と習合した。
庚申信仰の詳細は庚申信仰参照。
猿田彦の名前から庚申の「申」と結びついたと言われる。 - 中津宮
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江島神社は辺津宮、中津宮、奥津宮の三社の総称であり、それぞれの社で海を守護する三姉妹の女神を祀る。
市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)を祀っている中津宮は、慈覚大師が853年に創建。
明治時代までは「上之宮」と呼ばれていた。
1689年に再建。
現在の社殿は1996年に大改修されたもので、1689年創建当時の朱色が鮮明な権現造社殿を再現。
当社は日本三大弁財天のひとつで、芸能を司る妙音天女としても崇敬された為、江戸歌舞伎中村座、市村座から寄進された石燈篭などが多い。
2011年に正面両袖に四季を物語る透板欄間塀、また神域に水琴窟を造り一層神厳さを増した。 - 江の島大師
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鹿児島にある高野山真言宗最福寺の別院として1993年に創建。
真紅の仁王像が守る山門の奥に美術館を思わせる石造の本堂があり、その中には屋内にある像としては国内最大級ともいわれる高さ6mの赤不動像が本尊として祀られている。
本堂の中は自由に見学でき、毎日行われる護摩行に参加することもできる。 - 一遍上人の島井戸
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時宗(総本山は藤沢市の遊行寺)の開祖である一遍上人が遊行をした旧跡で、飲料水に窮する島民を助ける為に掘り当て、今も水を湛えている。
上人自筆と伝えられる「一遍成就水」の額は江島神社に残されている。
また、この近所にある蓮華池は一遍上人修行の旧跡。 - 江の島の関東ローム層と「江ノ島縁起」
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この場所で観察できる赤土は関東ローム層中の武蔵野ローム層と呼ばれる地層。
これは、第四紀後期更新世(約12.6~1.17万年前)に活発な火山活動をしていた箱根山、富士山などの火山から降り注いだ火山灰や火山砕屑物が江の島の基盤をつくる葉山層と呼ばれる固い岩石の上に堆積してできたもので、関東一円に広がっている。
長い年月の間に火山灰に含まれる鉱物の鉄分が酸化した鉄錆が赤土の色を作っている。
赤土の中に、やや粒が荒く、白っぽい帯のような地層が何本か確認できる。
これは軽石層(パミス)と呼ばれ、主に箱根火山の大噴火の時に短時間で大量に降り積もった火山砕屑物。
ここでは、下層から三浦軽石層(MP)、東京軽石層(TP)、箱根三色旗軽石層(SP)の3つの軽石層を見ることができる。
箱根火山由来のローム層の中で、江の島で観察できるのは約8万年前のものからなので、島が陸化したのもその時代ではないかと推察される。
有名な「江ノ島縁起」は平安時代中期に書かれた五頭龍と弁天様が登場する江の島誕生の物語。
その中に
「欽明天皇13年(西暦552年)4月13日真っ黒い雲が天空を覆い、深い霧が立ち込め、大地震が10日も続いた後、雲の上から弁天様が従えた四天王や風神雷神が空から石を降らせ、海からは真っ赤な火柱とともに岩が噴き出して江の島は誕生した」
との記述がある。
平安中期には、大地震による島の隆起や富士山の噴火で火山灰や軽石が降ってきた記録もあり、このような自然現象が人々の暮らしや信仰と結びついて「江ノ島縁起」誕生となったのかもしれない。 - 山二つ
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江の島は上空から見ると瓢箪のようにくびれた形をしており、ここは江の島をちょうど二分するくびれ部分に当たることことから「山ふたつ」と呼ばれる。
波によって削られてできた洞窟の天井部分が崩れ落ちたことにより、現在のような形になったと言われている。
山ふたつの谷底には遊行僧が修行した洞窟があるが、現在は危険な為立ち入り禁止。 - 頼朝寄進の鳥居
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鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』には、源頼朝が当時奥州一帯で非常に大きな力を持っていた藤原秀衡を調伏する為、今の岩屋洞窟に弁財天を祀り、鳥居を奉納した事が記されている。
後の1189年に源頼朝は奥州へ攻め入り、藤原氏を滅ぼした。
現在の鳥居は2004年の台風で破損し、一部新材で補修。 - 亀石(亀甲石)
- 1806年、弁秀堂という人が弁財天を信奉して金光明最勝王経を写経しここへ納め、上に置く石を探していたところ、亀の形をした石を発見したので江の島に奉納した。
- 力石
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江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が当神社に奉納したもの。
重さ80貫(320kg)で、石には「奉納岩槻卯之助持之八捨貫」と刻まれている。
弁財天の祭礼に詣でた人々の前で力競技を行った時のもの。 - 奥津宮
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江島神社は辺津宮、中津宮、奥津宮の三社の総称であり、それぞれの社で海を守護する三姉妹の女神を祀る。
多紀理比売命(タギリヒメノミコト)を祀る奥津宮は、明治時代まで本宮御旅所(おたびしょ)と称されていた。
これは、岩屋に一番近く、岩屋の本宮に海水が入ってしまう4月から10月の間は御神体を陸上に遷座する必要があった為、この期間の社殿として造営されたことによる。
奥津宮は当初壮麗を極めていたが、1841年に焼失、現在の社殿は1842年に再建されたもの。 - 奥津宮灯籠
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1846年、武州多摩郡相原村の青木勘次郎により奉納。
台座に浮き彫りされた天女や獅子は島内石造物の中でも逸品。 - 青木勘次郎
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豪農。東京と神奈川にまたがる地所を持つ裕福な一家。
息子の青木正太郎は、実業家、政治家、京急の社長も経験。 - 八方睨みの亀
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1803年に江戸時代の絵師である酒井抱一によって描かれ、1971年には藤沢市の指定文化財となる。
どこから見ても亀がこちらを睨んでいるように見えることから「八方睨みの亀」と呼ばれる。
正面向きの亀を桐材に金箔を押し、強い線で描かれ、もとは胡粉、緑青、丹色で彩色されていた。
酒井抱一によって描かれた実物の絵は海風による損傷から守る為に江島神社の社務所に保管されており、現在奥津宮に掲げられているものは、1994年に日本画家の片岡華陽画伯によって描かれた復元画。
酒井抱一の画技は特に優れ、琳派(俵屋宗達・尾形光琳流)を復活したことでも広く知られていた。
酒井抱一がなぜここに亀絵を奉納したのかは不明だが、亀は長寿のシンボルで、江の島は不老長寿の島として人々に人気があった。 - 山田検校斗養一坐像
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江戸箏曲の始祖・山田検校の等身大坐像。
山田検校の作曲した「江の島曲」は有名。
坐像の横の石碑は明治の文豪・幸田露伴による撰文が刻まれ、山田検校の芸術家としての功績を称えている。 - 龍宮(わだつみのみや)
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江の島は古来より龍が棲む場所とされ龍神信仰が篤く、五頭龍と弁財天にまつわる伝説「江嶋縁起」をはじめとした龍にまつわる伝説が多く残されている。
軍記物語「太平記」によると、鎌倉幕府創設の頃、初代執権北条時政が子孫繁栄を祈る為に岩屋洞窟で参籠した際、目の前に弁財天が現れ、時政の願いを叶える事を約束した後に龍(大蛇)の姿となり、海に消えていったと記されている。
その時に授かった龍の3枚の鱗を型取り、北条家の家紋にしたことが「三つ鱗紋」の起こり。
この様な龍神信仰を背景に、龍宮は龍神を御祭神として江の島岩屋の真上に位置するこの場所に建てられた。 - 龍恋の鐘
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昔、鎌倉の深沢山中の底無し沼に5つの頭を持つ悪龍が棲みつき、村人を苦しめていた。
子供を生贄に取られることから、この地を子死越と呼んで恐れられていた。
ある時、子死越前方の海上に密雲が何日にもわたって垂れ込めたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると今まで何も無かった海上に1つの島ができていた。
これが現在の江の島。
天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むが、悪行が止むまではと断られた。
その後、心を改め結婚する事ができた。
この伝説の天女が、江の島に祀られている弁財天と言われ、五頭龍が瀧口明神社として鎌倉市腰越に祀られている。
この鐘は、社団法人藤沢市観光協会の設立記念事業として、天女と五頭龍の伝説に因み設置したもの。
両サイドの銘板は、2人の記念日・名前を刻み2人の永遠の愛を祈念する趣旨に賛同いただいた方々。 - 曾禰荒助君碑
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曾禰荒助(そねあらすけ)は、明治期の官僚、政治家。
日露戦争当時の大蔵大臣を務めた。
1911年、江の島の龍野ヶ岡に、時の首相桂太郎篆額による「西湖曾禰君碑」という巨大な顕彰碑が建てられた。
これは、曾禰の別荘が片瀬にあった為。
撰文は三島毅、書は高島九峰。
なお、この碑には、1923年9月1日の関東大震災で破損し、翌年11月に修復したと刻まれている。 - も組鳥居
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1848年江戸町火消し「も組」により奉納。
鳥居表面に「まとい」文様が施されている。
火事の多かった江戸では防火用水の確保を大事にしていたが「水の神」としての弁財天の御利益を仰ぐ為に奉納された鳥居。
1923年の関東大震災に倒れ、1925年に修理。 - 稚児ケ淵
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稚児ケ淵は海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起したことによって生まれた。
昔、白菊という名前の稚児がここから身を投げたという話が「稚児ケ淵」の名前の由来。
稚児ケ淵からは、広がる海と空、富士山の向こうに沈む夕日を一望する事ができ、その絶景から「かながわの景勝50選」にも選ばれている。
また、釣りの名所としても知られており、休日は釣り人で賑わう。 - 江の島岩屋
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長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成る。
1971年以来、長期閉鎖されていたが、周辺施設を一新し、1993年4月から再開。
弘法大師が訪れた際には弁財天が現出し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れている。
岩屋へ続く全長128mの岩屋橋からは相模湾とその向こうに広がる富士、箱根、伊豆方面の景観が一望でき、開放感を満喫できる。
江の島色々
- 江島神社御鎮座記念龍燈籠
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江の島は弁財天と五頭龍の伝説がある島。
この龍燈籠は「江島縁起」による江の島湧出の時から数え1450年を記念に2001年に建てられた。 - モース記念碑
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大森貝塚の発見者として知られるEdward Sylvester Morse(モース)博士は江の島に東洋初の臨海実験所を開設し、わずか1ヶ月の滞在で多くの海洋生物を研究した。
江の島は、我が国の海洋生物学の発祥の地。 - 杉山検校の墓
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杉山検校は、本名を杉山和一という江戸時代の鍼師。
五代将軍綱吉の病気を治して関東総検校の地位を得たが、その時使った管鍼術は江の島弁財天から授かった。
お札に三重の塔を建てるなど弁財天とは縁の深い人物。 - 水琴の音のご神効
- 水琴の音に含まれる高周波が心身の浄化、運気向上と幸運を招いてくれると言われる。
- 【癒し効果】
- 水琴の音は、その水滴の音が自然の音である為、心地良い感じをもたらす。
- 【覚醒効果】
- 水琴の音は、眠っている細胞を覚醒させ、活気づける効果をもたらす。
- 【浄化効果】
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水琴の音は、その周辺の周波数を上げる。
場が整うと言う現象が起こり活性化され「スッキリする」「気持ちが良い」「気持ちが良い」と言った心身が浄化される様な感じがする。 - 【運気上昇】
- 水琴の音を日々継続的に聴くと体内の周波数が高まり、幸運や金運を引き寄せやすい体質になる。
- 【マイナス要素を除く】
- 水琴の音を日々継続して聴くと、自分が持つマイナスの要素への執着心を無くし、プラス思考へと変わっていく。
- 水琴の音は、自然がもたらす音なので人が持つ波長を刺激し「よく眠れる様になった」「心身の不調がとれた」「前向きな気持ちになった」等プラス思考になる体験をした方々が多くいる。
- 児玉神社
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台湾総督を経て日露戦争で日本を勝利に導いた児玉源太郎を祀った神社で、1921年の創建以来、勝運の神として仰がれてきた。
社殿は台湾から贈られた檜で造られており、鳥居も狛犬も台湾の石でできている。
また、設計は寺社建築の第一人者、伊藤忠太によるもので、境内には山県有朋の歌碑や爾霊山(203高地)の石などがある。 - 江の島サムエル・コッキング苑/江の島シーキャンドル(展望灯台)
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国際交流をテーマに藤沢市の姉妹友好都市コーナーが設けられている庭園。
苑内には南洋植物をはじめ四季折々の花が植えられている。
また、高さ59.8m、海抜119.6mの展望灯台からは、南に大島、西に富士山、東に三浦半島を望むことができる。 - 群猿奉賽像庚申塔
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奥津宮に向かう道の左手に建つ庚申塔は、市重要文化財に指定されている珍しい石塔。
四面に彫り出された猿は全部で36匹。
烏帽子姿で扇をかざして舞う猿や綱渡りをする猿、棒乗りをする猿などで愉快。
塔の下部には数匹の蛇が巻き付いている。 - 寂光山龍口寺
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日法上人が建立した日蓮宗門随一の霊跡寺院。
境内の奥には1910年建立の五重の塔がそびえている。
大本堂、大客殿、五重塔はみな総欅造り。 - 龍の口刑場跡
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立正安国論を唱え幕府批判をしたことにより裁判を経ずに処刑されそうになったが、役人が刀を振り下ろそうとした時雷鳴轟き光り物が来襲、日蓮を救った。
土牢で夜明けを待ち土佐へ流された。
毎年9月12日には龍口法難会が盛大に行われる。 - 仏舎利塔
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日蓮聖人法難700年を記念して日本山妙法寺より寄進されたパゴダ型の白亜の塔。
中にはお釈迦様の骨が奉安されている。
ここは、江の島全景が眺められる景勝地でもある。
箱根
- 箱根町
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東海道(五十三次=約500km)の要衝(nœud de communication)であり、箱根峠の麓(au bas d'un col)には宿場(étape)や関所(barrière d'octroi)が置かれ、温泉地(ville d'eaux)としても発展。
※東海道五十三次…Les cinquante-trois stations du Tokaido.
当時は京都〜東京間の500kmを15日間で歩いた。
箱根は日本橋から数えて10番目の宿場町で東京からの距離は約100km。
箱根は温泉地として古くから人気があり、そのため東海道の宿場町として栄えた。
現在は20の温泉が営まれている。
箱根宿は江戸から数えて10番目の宿場(ville d'étape)であり、標高725mという東海道五十三次内で最も高い場所に置かれたため、幕府も宿場の維持に苦心した。
Hakone est dixième ville d'épate et ça se trouve le plus haute altitude 725m, donc Bakufu(shogounat / gouvernement) se donnait du mal au maintien de cette ville.
標高は、箱根湯本駅(115m)、強羅駅(550m)、大涌谷(1044m)、芦ノ湖(723m)、そして箱根最高峰の神山(1438m)。
- 箱根とエヴァンゲリオン
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「新世紀エヴァンゲリオン」は、1995年から放送が始まった90年代の第3次アニメブームのきっかけとなった作品。
未曾有の大災害の後、再建不能となった首都東京の代わりに第2新東京市として長野県松本市が暫定的に首都機能を担った。
そして第3新東京市として芦ノ湖北岸に首都建設を行う。という設定。
- 関所
barrière d'octroi -
1619年、箱根関所が現在の場所に置かれた。
徳川幕府は全国53箇所余りに関所を設けたが、その中でも中山道の木曽福島(長野県)、碓氷(うすい=群馬県)、東海道の新居(静岡県)、そして箱根を重要な関所として位置付けた。
一般的に「入鉄砲」と「出女」を取り締まったが、箱根関所では「入鉄砲」の取り締まりは行われておらず、「出女」を厳しく取り締まった。
交通の要衝(nœud de communication)に設置され、徴税(perception)や検問(le contrôle)をするための施設。
La barrière d'octroi est l'établissement construit au nœud de communication pour la perception et le contrôle.
中央で発生した謀反(révolte)の関係者の逃亡(fuite)を阻止し、政府に不都合な情報が関所外に漏れることを防ぐ、情報統制の役割も果たした。
Quand la révolte se passe, la barrière bloque la fuite de rebelle.
中世に入ると、武士や有力寺社などが独自に関所を設置し、通行税を徴収した。
Au moyen-âge, Bushi et des grands temples ont construit des barrière d'octroi particulière pour la perception.
ただし、関所を設置した勢力は通行税を納めた通行者に対して通行の安全を保障する義務を負った。
Mais des gens qui construit la barrière d'octroi, ils doivent protéger des passants qui payent du péage.
戦国時代には各地の戦国大名が一円支配を強めた為、関所は減少していった。
A la période de guerres civiles intestines, des seigneurs locaux gouvernait chaque fief donc la barrière d'octroi a diminué.
江戸時代になると、再度関所の設置が盛んとなり、同時に五街道が整備された。
A l'époque Edo, ça augmentait encore.
また、近世の関所は「入鉄砲と出女」を検問する場所とされていた。
入鉄砲とは、江戸の治安を守る為、外から武器が入ってくるのを取り締まった。
出女とは、江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が領国に脱出するのを防ぐため。
「入鉄砲と出女」=「Des fusils entrent et des femmes sortent」
Bakufu surveillait l'arme qui entre au centre ville.
Bakufu surveillait la femme de seigneur qui fuit, car elle est l'otage.
関所は1869年に明治政府によって廃止された。
La barrière d'octroi a été aboli en 1869 par nouveau gouvernement Meiji. - ひかりつけ
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石の凹凸に合わせて木材が削られ、土台が石垣にピッタリ取り付けられているのがわかる。
この加工技術を「ひかりつけ」と呼ぶ。
ひかりつけを行うには、石灰をまいた石垣上部に木材を乗せ、密着具合を確認しながら木材を削っていく。
木材全体に石灰が満遍なく付くまで、何度も確認しながら作業を続けると、ひかりつけが完成する。 - 勝手板の間
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大番所・上番休息所の建物内一室。
この部屋には囲炉裏が置かれ、関所役人の食事や休息に使われていた。 - 番士(ばんし)
- 旅人が差し出した箱根関所を通行する為の証文が本物かどうかを改めたり、旅人から聴取した行き先などを記録した。
- 中間(ちゅうげん)
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箱根関所役人の身の回りの世話等をした。
また、関所で使われていた馬の世話等も役目の一つ。 - 土間
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大番所・上番休息所の建物内一室。
ここには、竈が据えられていた他、箒や提灯、蓑・菅笠等様々なものが置かれていた。
また、この土間が建物と外の主な出入りの場所だった。 - 下番(しもばん)
- 関所役人の食事の支度を始め、かまどや囲炉裏の火の番等様々な雑用をしていた。
- 面番所(めんばんしょ)
-
大番所の建物内の一室。
「次の間」「番士詰所」等とも呼ばれ、関所役人の内番士や定番人等が詰めていた。
また、部屋の前の縁側では「出女」の取り調べが行われた。 - 常番人(じょうばんにん)
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箱根宿に住んでいる人で、小田原藩から雇われていた。
関所役人の補佐をして、旅人の通行改め等を行った。 - 番士(ばんし)
- 上に同じ。
- 人見女(ひとみおんな)
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関所近隣に住む、代々小田原藩から雇われている女役人。
江戸から京都方面に向かう女性の旅人「出女」が箱根関所を通過する際、髪を解いたりして、取り調べをしていた。 - 上の間(かみのま)
-
大番所内の一室。
この部屋は、箱根関所の中でも最も格が高く、通常は伴頭、横目が座り、大名や家老等の接待の間としても使われた。
また、鉄砲や弓も置かれ、旅人を威嚇していた。 - 伴頭(ばんがしら)
-
小田原藩から箱根関所に赴任してきた侍の責任者。
関所の運営や管理についての責任を負う。 - 横目付(よこめつけ)
-
伴頭に次ぐ人物で、伴頭の補佐役。
伴頭以外の侍や足軽、定番人、人見女等の人事管理を担う。 - 獄屋(ごくや)
-
足軽番所に付属する獄屋。
関所破り等の罪人を留め置く所で、とても頑丈に造られている。 - 和釘(巻頭)
-
関所の復元に使用した釘で、江戸時代に使用されていたものと同様の作り。
この釘は、断面が角ばっていることと、巻頭(まきがしら)と呼ばれる頭の形に特徴がある。
この釘を打ち込むと表面に釘の頭が突出せず、平に仕上がる。 - 金輪継ぎ(かなわつぎ)
-
関所の建物には「金輪継ぎ」という日本古来の建築工法が使われている。
これは、繋ぎ合わせる材木を手で刻み組み合わせ、楔を打ち込んで留めるという大変強固な継ぎ方。
建物の柱と梁等骨組みの部分はこの「金輪継ぎ」となっており、足軽番所の軒下等で見ることができる。 - 休息所
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足軽番所の休息所。
身の回りの日用品等を置き、夜に休む所。
この奥の部屋は下番居所と呼ばれ、雑用をする下番が控えていた。 - 足軽
- 関所役人の下で、京口御門や江戸口御門の門番を始め、遠見番所での芦ノ湖の見張り等、様々な仕事に従事。
- 土間
-
足軽番所の土間。
炊事等を行う。
ここには日用品の他、六尺棒等の捕物具が置かれた。 - 井戸
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箱根関所絵図には描かれていなかった場所から遺構調査によって井戸が発掘された。
この井戸は山水を蓄え涸れることなく一定の水位を保っている。 - 石段
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遠見番所に上がるこの階段には、発掘調査によって出土した江戸時代の踏み石がそのまま使われ、急な傾斜も当時を再現している。
古の役人が行き来した石段を登ると芦ノ湖の対岸まで見渡せる。
下から数えて17段目より上は当時の踏み石。 - 遠見番所
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1階は土間。
2階は足軽が関所破りに備えて街道やその周辺、また芦ノ湖を見張っていた。
当時関所破りされないよう、京口御門や江戸口御門から芦ノ湖の湖中や背後に聳える屏風山山頂まで柵が巡らされていた。
柵の延長は芦ノ湖側で61m程、屏風山側では凡そ400m設置され鉄壁な対策が講じられていた。 - 関所と石畳
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天下の険、箱根の山は活火山であり、周囲を外輪山が囲み、その中に中央火口丘と呼ばれる山々が分布するカルデラ地形になっている。
ここは、前面に芦ノ湖を望み、背後には中央火口丘の一つである屏風山が控え、幅の狭い土地になっている。
その為、監視の目を光らせるには最適な場所だった為、関所はここに建てられた。
この狭まった地形は、断層の活動と関係している。
ここには湖岸沿いに箱根町断層と呼ばれる断層があり、80,000年前の火山活動で作られた屏風山の西側斜面が急な断崖となっているのは、この断層の活動によるものと考えられている。
- 箱根旧街道杉並木の保護
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『箱根八里』で"昼なお暗き杉の並木"と唄われた箱根旧街道杉並木は、江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりと大切な役目を果たしてきた。
しかし、近年枝や葉が少なくなり、樹勢の衰えが目立つ。
1984年に活力調査を行い、原因を調べた結果、様々な杉の生育状の致命的な問題が発見された。
そこでまず、1986~91年まで湖側の並木敷地を対象に、- 土を柔らかくする
- 酸素を土の中に送り込む
- 杉の栄養根の発育を促す
- 杉の根元に人が入り込み栄養根を踏まないように紫陽花を植える
さらに、1993年からは、遊歩道を対象に、同様の保護対策を行なっている。
遊歩道の表面の砂利は、酸素を土の中に送り込んだり、遊歩道の排水を良くする為に大事な役割を果たす。
杉並木は第二次世界大戦中に伐採されそうになったが、現在では国指定史跡として保護され、芦ノ湖畔周辺の4地区に420本の杉が残されている。
- 箱根駅伝
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毎年1月2日と翌3日にかけて、東京から箱根間の往復の順位を出場20大学で決める大会。
1920年の第1回大会は「アメリカ大陸横断レース」の代表選考会という位置づけで2月14日に行われた。
一説によると、古来の飛脚制度(facteur)をもとに、手紙(letter)に見立てた襷(cordon)を、東京から宿場のあった鶴見(川崎宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引継ぎ、箱根町郵便局(箱根宿)まで届ける観光イベントだった。
各チーム10名が往路(1区~5区)、復路(6区~10区)で襷を繋ぐ。
そして、観光客の減少する冬季に宿泊客を呼び込むために2日間かけて開催されたと言われている。
出場大学が関東圏で、東京・箱根間往復の為、当初は関東地方で人気を博したが、1987年のテレビ放送以降、正月の風物詩として全国的に注目されるようになった。
往路は、1区から5区まで、東京都千代田区大手町読売新聞東京本社ビル前から、鶴見、戸塚、平塚、小田原を経て神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖までで、107.5km、復路は6区から10区までの109.6km、合計217.1kmのコース。
- 箱根登山鉄道
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1919年に開業し、小田原駅から強羅駅間の15km・11駅を行き来する。
日本一の急勾配(pente le plus raide au Japon)を通る列車としても知られ、その様な環境下においてもケーブル(câble)に頼らない普通鉄道としても有名。
建設に当たって、スイスのレーティッシュ鉄道(Chemins de fer rhétiques en Suisse)を参考にしており、1979年に両社は姉妹鉄道提携(en collaboration)を結んでいる。
日本一の急勾配は80‰(par mille)で、これは1,000m進むと高低差が80mになる計算。
つまり、1m進むと高低差が8cmになる。
Avancer 1m, monter 1cm.
車両1両の前後端で約1mの差が出る。
ちなみに、世界一はスイスのピラトゥス鉄道(Pilatusbabn)で480‰、1m進むと48cm登る計算。
急勾配を登る為にスイッチバック(zigzag)方式を取っており、運転手(conducteur)と車掌(contrôleur)が入れ替わる様子も見ることができる。
スイッチバック方式により、線路敷設工事の簡略化やトンネル掘削作業の省略ができる。
On peut simplifier le travaux pour poser une voie ferrée et pour percer un tunnel en montagne.
箱根湯本から強羅までの箱根登山鉄道は、空いていれば進行方向左窓側が良い。
大涌谷
vallée
- 箱根火山ができるまで
- Il y a entre 400 milles ans et 240 milles ans
- いくつもの成層火山ができた。
- Il y a entre 230 milles ans et 130 milles ans
- 大規模な噴火が繰り返し起こり、カルデラと外輪山ができた。
- Il y a entre 130 milles ans et 80 milles ans
- カルデラの中に屏風山などの中央火山丘ができた。
- Il y a entre 80 milles ans et 40 milles ans
- 爆発的な噴火が繰り返し起こり、大規模な火砕流の噴火も起こった。
- Il y a 40 milles ans
- カルデラの中に神山などの中央火口丘ができた。
- Il y a 3 milles ans
- 神山が崩れて大涌谷と芦ノ湖ができ、その後冠ヶ岳が誕生。
-
大涌谷では古くから硫黄の採掘が行われていた。
硫黄はさまざまな化学製品の原料として重要だが、現在は石油精製の過程で回収された硫黄が用いられ、火山から採掘されることはほとんどなくなり、大涌谷でも硫黄の採掘は行われていない。
硫黄はそのまま殺虫剤(l'insecticide)や、蛇除けの薬剤として販売される。
箱根火山の地下10kmより深いところにマグマがあり、その上部にはマグマから供給された火山ガスや熱水のたまる場所があると考えられている。
以前は「大地獄(Le grand enfer)」や「地獄谷(La vallée d'enfer)」と呼ばれていたが、1873年の明治天皇皇后のご訪問を前に現在の「大涌谷」へと改名。
Le grand enfer et la vallée d'enfer portent malheur.
※「涌く」= jaillir
1960年に箱根ロープウェー(le téléphérique)が運転開始し、観光の利便性が向上。
噴煙(fumée volcanique)や硫黄(le soufre)を見ることが出来る。
2015年4月末から箱根火山を震源とする火山性地震(tremblement de terre volcanique)が増加。
2015年5月に小規模な噴火(2001年以来14年ぶりの噴気)が確認され、2016年7月まで立ち入り禁止。
2019年5月、噴火警戒レベル2に指定。
ロープウェー運転停止し、代わりにバス路線にて運行。
2019年10月、噴火警戒レベル1に引き下げられ、ロープウェー全線再開。
大涌谷周辺では、人体に有害な火山性ガス
硫化水素ガス(Le sulfure d'hydrogène)
二酸化硫黄(Le dioxyde de soufre)
が噴出している為、臭いが強い時や目・鼻・喉に刺激を感じる時は退避する。
Si vous sentez mal aux yeux, au nez, et à la gorge, retournez l'intérieur de bâtiment.
特に、喘息の方、呼吸器系に異常のある方、心臓に異常のある方、体調の優れない方は注意。
Surtout, asthmatique[as-ma-tik], cardiaque, la maladie respiratoire, et quelqu'un n'est pas en forme. - 噴気地帯
-
豊富な自然噴気の他30本余りの掘削井戸(la fosse)からの熱噴気と地下水を混合して温泉が造成される。
噴気を減少させる目的で人工的な噴出口の掘削(le forage)が行われる。
ボーリング掘削孔は閉塞しやすく追加掘削も行われる。
1930年、大涌谷の噴気を利用して温泉を造成する箱根温泉供給株式会社が発足。
泉源が無かった仙石原や強羅などの旅館への配湯を開始した。 - 噴気ガス
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1960年代、地質調査所(la géologie)による調査結果
噴出温度95~143度
- 水(成分の98%)
- 硫化水素…L'hydrogène sulfuré
- 二酸化炭素…Le bioxyde de carbone
- 亜硫酸ガス…L'anhydride sulfureux
- 水素…L'hydrogène
- 窒素…L'azote
- ヘリウム…L'hélium
- 黒たまご
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地熱を利用して作られるゆで卵(l'oeuf dur)が名物で、温泉に含まれる硫黄と鉄分が結びついて黒い硫化鉄となって卵の殻に付着する。
- 80度の温泉水で60分茹でる。
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殻に温泉地の成分である鉄分(fer)が付着。
これに硫化水素(un hydrogène sulfuré)が反応して硫化鉄(le sulfure de fer)となる。 - 黒くなったら釜へ移し、100度の蒸気で15分蒸す。
la durée de la vie se prolonge plus 7 ans.
平安時代に延命地蔵尊があったことに起因する。
7年の由来は、七福神にあやかり、縁起の良い数字だから。 - 噴火警戒レベル
- 噴火警戒レベルが運用されている火山は、富士山、箱根山、御嶽山、桜島、大雪山など49火山
- 芦ノ湖
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面積7㎢、最大水深43.5m、水面標高724m、周囲19km。
3,100年前の噴火で起きた山体崩壊で湖尻を水源として仙石原方面へ流れていた川が堰き止められて(endiguer)できた淡水のカルデラ湖(lac de la caldaira d'eau douce)。
L'éruption phéatique et l'éboulement de montagne ont endigué le courant de la rivière de Kojiri vers Sengokuhara, et puis ce lac Ashi est né.
芦ノ湖から流れる用水は以前は農業用灌漑として利用されていたが、現在は強羅付近にある早川水力発電所の稼働にも使われている。
Autrefois, de l'eau de ce lac et cette rivière a été utilisé pour l'agriculture mais actuellement, c'est pour l'houille blanche qui se trouve à Gora.
最大水使用量は毎秒1.6㎥で、年間平均4,300万㎥の水が流れ出る。
Le volume d'eau est 1,6 mètres cubes toutes les secondes, et 43 millions mètres cubes par an.
ではそのような水量はどこから来るのか?
Le vaste volume d'eau vient d'où ?
そのほとんどは雨水と言われている。
C'est la pluie.
周囲の山々に降り注いだ雨が浸透して地下水となり、芦ノ湖湖底から湧き出る。
Il pleut autour de la montagne. La pluie pénétre sous-sol, et l'eau jaillit à profusion du font de lac.
757年に僧侶万巻が箱根神社を建立し、人々を苦しめていた九頭龍を調伏して守護神として祀った。
1911年に遊覧船による芦ノ湖観光(西武グループの伊豆箱根鉄道)が開始された。
1925年に日本で初めてブラックバス(L'achigan à petite bouche)が放流された。
1950年に箱根観光船(小田急グループ)の運行が開始される。
開業当時、客船としては世界初の双胴船(bateau à deux coques)を運行している伊豆箱根鉄道相手に苦戦したが、社長がアメリカのディズニーランドを視察(faire une inspection)してアイディアを起用し、海賊船(bateau pirate)として運行を開始すると瞬く間に人気を博した。 - 芦ノ湖沿岸施設
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山のホテルは、1948年創業。
三菱の創業者、岩崎彌太郎の甥である岩崎小彌太郎男爵の別邸だった。
1911年に建てられるも、翌年に火災で焼失。
後に旧岩崎久彌邸を手がけたジョサイア・コンドル設計の建物が完成。
しかし、1923年の関東大震災で崩壊。
翌年、コンドル設計の建物を再現する形で木造に建て替え。
162㎡の土地に和館などを増築。
1935年には敷地内にゴルフコースも新設。
戦後「これからは観光に力を入れるべきだ。」と、財界のトップが中心となり、国際観光株式会社を設立。
同社は男爵の別邸を買い取り、ホテルとしてオープン。
| 年代 | 船名 | 定員 | 備考 | 退役船 |
|---|---|---|---|
| 1950年~1964年 | 乙姫丸 | 小型船 パイオニアと入れ替わりに退役 |
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| 1964年~1991年 | パイオニア | 海賊船 バーサと入れ替わりに退役 |
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| 1980年~2007年 | ビクトリア | 海賊船 ビクトリーと入れ替わりに退役 |
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| 1987年~2013年 | ロワイヤル | 海賊船 ロワイヤルIIと入れ替わりに退役 |
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| 1991年~2019年 | バーサ | 650名 | 海賊船 クイーン芦ノ湖と入れ替わりに退役 |
| 1996年~2008年 | フロンティア | 350名 | 外輪船 回遊航路廃止のため退役 |
| 現役船 | |||
| 2007年~ | ビクトリー | 500名 | 海賊船 |
| 2013年~ | ロワイヤルII | 565名 | 海賊船 |
| 2019年~ | クイーン芦ノ湖 | 541名 | 海賊船 |
- 箱根神社
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まず、第5代孝昭天皇の御代(BC475年~BC393年/avant Jésus-Christ)、聖占仙人(Un ermite sacré)が箱根山の駒ヶ岳に神仙宮を開き、関東における山岳信仰の一大霊場となった。
757年、僧侶万巻(Mangan)が信託を受けて(Il a reçu l'oracle.)現在の地に社殿を建立し、箱根権現と称す。
平安時代初期(au début de 9ème siècle)、東海道が開通すると道中の安全祈願に立ち寄る人々によって知られる事となる。
801年、坂上田村麻呂は蝦夷征討の際に参詣して矢を奉献。
これに倣い、源頼義も11世紀に参詣して矢を献じた。
817年、嵯峨天皇によって駿河・伊豆・相模の荘園を寄進。
続いて鳥羽上皇も相模国酒匂郷48町を寄進。
平安末期(12世紀末)には中古三十六歌仙の歌人・相模が御神前で百首の和歌を献詠した。
鎌倉時代に源頼朝は箱根神社を深く信仰し、鎌倉幕府歴代将軍による参詣は幕府恒例行事となった。
執権北条氏の信仰も厚く、御成敗式目において日本第一の社として天下にその名を轟かせた。
江戸時代には徳川家康により1612年、大規模な社殿造営が行われた。
1618年、東海道が整備されると箱根宿や関所が設けられ、東西交通の要衝として交通安全祈願など、庶民信仰の聖地へと変わった。
明治初年(1868年)、神仏分離によって箱根権現は箱根神社と改称。
1873年には明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、現在に至るまで皇族をはじめ、民間も政財界人も含め年間2千万人を超える観光客を集めている。 - 九頭龍神社
-
本宮は芦ノ湖畔、桃源台と箱根園の間に鎮座。
新宮は箱根神社脇、正面向かって右手に鎮座。
- 伝承では(Selon la tradition populaire)、万巻上人が芦ノ湖で暴れている龍を鎮め(il a apaisé un dragon qui se démenait au lac)、守護神として祀った(il l'a déifié comme le dieu tutélaire.)。
- 平和の鳥居
Torii de la paix -
湖上の鳥居は、1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約(Le traité de San Francisco)発効により被占領解除となり日本の主権が回復した記念に建立された。
国際法上、この条約により日本と連合国(les Alliés)間の「戦争状態」終結。
Ce portail a été construit 28 avril 1952 en mémoire du traité de San Francisco.
Ça veut dire, le Japon s'est rétablir la souveraineté.
1964年、御鎮座1,200年と東京オリンピック開催を記念し、「平和」の扁額が掲げられた。
Et puis, la lettre "平和(La Paix)" a été mis en haut en mémoire de 1,200ème anniversaire et J.O.Tokyo en 1964.
平和の文字はサンフランシスコ平和条約締結時の吉田茂元首相のもの。
- 矢立杉
-
坂上田村麻呂は、801年に東北鎮撫へ向かった。
Il est allé au nord pour pacifier cette région.
その途中、箱根の坂を超える時、箱根権現に参拝し、「表矢」をこの杉の木に献じて武運長久を祈願した。
Au chemin, il a prié sa victoire au sanctuaire Hakone et dédié une flèche à cet arbre.
田村麻呂はその後東北を平定したことから、後世の武将たちもそれに倣い戦勝を祈願した。
Après son travail, des gens à la postérité ont prié avant leur travaux.
樹齢は1,200年程。 - 安産杉
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遠い神代の昔、高天原から降臨された瓊瓊杵尊がこの地上で初めて出会った容姿端麗な木花咲耶姫と結婚されて、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が健やかに誕生された神話に由来。
Selon la mythologie japonaise, Un dieu Ninigi a rencontré une déesse Sakuya ici, et ils se sont marié et puis elle a trois fils.
古来、この大樹の根幹は健全なる母胎の象徴と見なされて、子孫繁栄を祈る子授け・安産の杉と信仰され、武家や庶民の間で「安産祈願は安産杉」と盛んに参拝が行われるようになった。
On considérait la forme de cet arbre de gros fût comme le symbole d'accouchement facile.
Donc des gens sont venus ici pour prier.
鎌倉幕府を開いた源頼朝は箱根神社を大変崇敬し、1182年夫人の北条政子が産気づくと、頼朝は使者を派遣して安産祈願を行った。
Quand la dame de Yoritomo MINAMOTO a senti les premières douleurs de l'accouchement, il a prié ici.
Le lendemain, elle a un fils qui deviendrait second Shogun.
翌日、二代将軍となる頼家が無事に産まれた。 - 芦ノ湖の「けけら木」
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芦ノ湖中にある湖底木のひとつ。
万巻上人が毒龍を調伏する祭に繋ぎ止めた木として縁結び祈願の由来ともなった。
Quand Mangan a soumis le dragon violent, il l'a attaché à cet arbre.
Donc ce sanctuaire est pour la relations d'amour aussi.
箱根の美術館
| ポーラ美術館 | モネ、ルノワールなどの印象派絵画 | 9:00~17:00(16:30最終入館) | 年中無休 |
|---|---|---|---|
| 彫刻の森美術館 | 野外彫刻やピカソの作品群 | 9:00~17:00(16:30最終入館) | 年中無休 |
| 岡田美術館 | 古代から近代までの日本・東洋の絵画や焼物と庭園 | 9:00~17:00(16:30最終入館) | 年末年始 |
| 箱根美術館 | 主に焼物 |
4月~11月=9:30~16:30(16:30最終入館) 12月~3月=9:30~16:00(15:30最終入館) |
木曜休館 |
| 箱根ガラスの森美術館 | ヴェネチアングラスや現代ガラス作品と庭園 | 10:00~17:30(17:00最終入館) | 1月中旬 |
| 箱根ドールハウス美術館 | ドールハウス |
4月~10月=10:00~17:30(17:00最終入館) 11月~3月=10:00~17:00(16:30最終入館) |
第2・第4火曜日 |
- 彫刻の森美術館
- Le musée en plein air de Hakone
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1969年に開館した野外彫刻を中心に展示する美術館。
敷地面積70,000㎡内に1,250点もの作品を擁する。
| 主な彫刻 | |||
|---|---|---|---|
| ヘンリー・ムーア | Henry Moore | イギリスの彫刻家 | 抽象化された人物像 |
| パブロ・ピカソ | Pablo Picasso | スペインの画家 | キュビズム、シュルレアリスム |
| ジャコモ・マンズー | Giacomo Manzù | イタリアの彫刻家 | サン・ピエトロ大聖堂の扉の彫刻 |
| 佐藤忠良 | さとうちゅうりょう | 日本の彫刻家 | 生き生きとした女性像をブロンズや木で表現 |
| 水井康雄 | みずいやすお | 日本の石像彫刻家 | パリを拠点に活動。抽象的な形を大規模な作品で表現 |