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栃木県

栃木県 宇都宮市 日光市
面積 6,400㎢ 416㎢ 1,449㎢
人口 1,920,000人 515,000人 75,000人

目次


日光

日光市
関東の市区町村(ville)で最も面積が広い。
市域の87%を森林が占める。
市内最高峰は日光白根山の2,577mで、最も低い所でも200mある。
ちなみに、東武日光駅前は標高543m。
782年に勝道が輪王寺を建立して以来、修験道の道場であり、山岳信仰(la vénération de montagne)の聖地だった。
1617年に東照宮が建立されると、日光への参拝客で賑わうようになる。
1890年にJR日光駅、1929年に東武日光駅が開業。
山が多く、降水量もあるため、多くの水力発電所(la centrale hydraulique)を有する。
また、観光業と鉱工業(industrie minière)が盛ん。
1610年の開山から1973年の閉山まで、最盛期には精銅を年間1,500トンも産出していた。
Il y avait une grande mine de cuivre entre 1610 et 1973.
足尾銅山産の銅を索道を用いて運び出し、水力発電を利用して精錬。
アルミニウムの精錬事業やコンクリートブロックの作成も行われている。
L'affinage de l'aluminium et du béton.
中禅寺湖においてヒメマス(une sorte de la truite)の養殖が行われており、日光ヒメマスとしてブランド化している。
木工(travail du bois)や食品加工(industrie de transformation alimentaire)や農業(agriculture)も盛ん。
特産品は湯葉たまり漬け

日光国立公園
  • 指定…1934年12月4日
  • 面積…114,908ha(1149㎢)
  • 年来園者…18,000,000人
  • 特徴…国立公園、福島・栃木・群馬
IUCNカテゴリII「国立公園」
L'Union internationale pour la conservation de la nature(=UICN).


栃木の山

1 白根山 しらねさん 2,577m
2 男体山 なんたいさん 2,486m
3 女峯山 にょほうさん 2,483m
4 帝釈山 たいしゃくさん 2,455m
5 錫ヶ岳 すずがたけ 2,388m
6 太郎山 たろうさん 2,367m

男体山
標高2,486m
富士山と同じ成層火山(Un stratovolcan ou un volcan composite)の活火山。
Un volcan constitué de nombreuses couches(strates) lave durcie et de téphras.
Un volcan conique.
最新の噴火は7,000年前。
1万年以内に噴火があれば活火山。
初登頂は、782年に僧勝道(しょうどう)。
山頂に至ることが悟りを開くことにつながり、また釈迦が雪山で苦行をしたことに倣ってあえて残雪期の登頂を試み、767年の初挑戦時から度重なる失敗を経て782年に登頂成功し、山頂に二荒山神社奥宮を建てた。
現在は4月25日~11月11日までが登頂可能。
一般的なコースは登りが3時間50分。
下りが2時間30分。
2011年の震災で山頂の石鳥居が倒壊したが石材を運搬するのに数百万円かかるため断念。
しかし、同年日光市在住の男性が檜製の鳥居を奉納したいとの申し出があり、2012年に分解(le démontage)した状態の鳥居を頂上で組み立てることで再建。


戦場ヶ原
標高1,400mの平坦地に広がる400ha(4㎢)の湿地(la zone humide)。
2万年前の男体山(2,486m)噴火で湯川が堰き止められた堰止湖だったが、その上に土砂や火山灰などが積もり、植物が自生し、冷涼な気候のために泥炭化して湿原となった。
名称の由来は、栃木県の男体山と群馬県の赤城山がそれぞれ大蛇と大百足に化けて戦ったという逸話から来てる。
近隣の赤沼という地名は、戦いに敗れた百足が流した血で沼が赤く染まったと言われている。
ラムサール条約の重要な湿地として、日光国立公園内の湯ノ湖、湯川、戦場ヶ原、小田代原、260.41haが「奥日光の湿原」として、2005年11月8日に登録。
戦場ヶ原は、本州最大級の高層湿原であり、ワタスゲ、レンゲツツジ、ホザキシモツケ等の100種類以上の湿原性植物の生育が確認されている。
鹿との戦い
戦場ヶ原の周囲には、17kmにわたって柵が設置されている。
この場所も柵の中。
この柵は増え過ぎた鹿が湿原固有の植物を食べたり、踏み荒らすのを防ぐ為に設けられている。
生き物のバランスが崩れると、貴重な生き物を失う危険がある。
湿原の白い絨毯
6月から7月にかけて、戦場ヶ原が白い絨毯を敷いたように見える。
絨毯の正体は、綿毛を開いたワタスゲ。
赤沼や湯滝から歩道が整備されているので、散策に最適。


神橋
勝道上人が766年、日光山を開くとき、大谷川の急流(rapides)に行き手を阻まれ、神仏に加護を求めた際、仏教の守護神・深沙大王(じんじゃ)が現れ、2匹の蛇を放った。
蛇の背中から山菅が生えて(des herbes ont poussé)橋となった。
現在のような朱(le vermillon)塗りになったのは、東照宮大造替があった1636年のときで、1902年の洪水で橋は流されるも、1904年に再建。

勝道上人銅像
766年に日光山を開いた日光生まれの修行僧勝道上人(735~817)の像。
1955年、日光市政施行を記念して建立。
ここから世界遺産「日光の社寺」の区域が始まる。
前方に日光山大本堂「三仏堂」をはじめ、東照宮、二荒山神社、そして三代将軍徳川家光公の霊廟「大猷院」まで、「日光二社一寺」の境内が続く。
これら「二社一寺」の国宝・重要文化財を合わせた103棟の歴史的建造物と、境内地50.8haは、1999年12月、国内10件目のユネスコ世界文化遺産リストに登録された。

輪王寺
  • 創建…766年
  • 本尊…阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音
  • 宗派…天台宗
  • 開基…勝道
世界遺産「日光の社寺」を構成する「二社一寺」の内の一寺。
766年、勝道によって建立。
東照宮は徳川家康を神として祀る神社である一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代(8世紀)に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史を持つ。

宝物殿
1230年を越える日光山の歴史を物語る歴史的、美術的価値の高い資料(以下、什宝)を保存、研究し、参拝客への公開を目的として建設され、1983年に開館した鉄筋コンクリート2階建ての施設。
収蔵庫には、国宝1件59点、重要文化財51件1618点、重要美術品4件7点を含め、日光山1240年余りの歴史を物語る約30,000点の什宝を収穫、常時50点ほどを拝観室に展示している。
2003年11月13日より、徳川記念財団の特別協力館として、御宗家に伝来する初代家康公以来の貴重な宝物の常設展示も併せて行われている。
この宝物殿に隣接して江戸時代の日本庭園「逍遥園」がある。
苔むした池泉回遊式庭園内には、春はシャクナゲ、ツツジ、サツキ。

三仏堂(本堂)
東日本最大の木造建築で、現在の建物は1645年竣工。
堂内には日光山の本地仏として三体の本尊が祀られている。
三仏 三山 三所権現 垂迹神 総高
(像高)
千手観音 男体山 新宮権現 大己貴命
オオナムチノミコト
7m
(3.3m)
阿弥陀如来 女峰山 滝尾権現 田心姫命
タゴリヒメノミコト
7.5m
(3m)
馬頭観音 太郎山 本宮権現 味耜高彦根命
アジスキタカヒコネノミコト
7.4m
(3m)

相輪塔
高さ16mの仏塔。
1643年徳川三代将軍家光公の発願により、日光山第53世天海大僧正が世界の平和と繁栄を願って、東照宮の奥院鬼門に建立したが、その後の大地震の為に新宮(現・二荒山神社)境内に移築され、さらに神仏分離によって1881年に現在地に移された。
内部にはお釈迦様の舎利(遺骨)に見立てた「お経」が納められている。
正面左右にある燈籠は、山内最大の青銅製燈籠で「糸割符燈籠」と呼ばれる。
家康公から生糸輸入の特権を許された京都、堺、江戸、大阪、長崎の糸割符商人が奉納したもので、胴体部分のレリーフは、中国の「二十四孝の物語」がモチーフ。

大護摩堂
護摩祈願を行うお堂。
日光山の100棟以上の歴史的建造物は、全てが木造建築の指定文化財で、火の取り扱いに制限があり、多くの参拝者の要望に応える為1998年に新築された。
堂内には不動明王を中尊とした五大明王(平安中期作)を中心に、七福神や祖師像等30体の尊像が祀られており、年間を通じて7:30/11:00/14:00の3回、護摩祈願を行なっている。

日光東照宮
1616年6月1日徳川家康死去。
家康自身の遺言(Il a laissé son testament)
「遺体(le corps)は久能山に納め、一周忌が過ぎたら日光山に堂を建て、神として祀る(déifier)こと。
そして八州の鎮守(dieu tutélaire)となろう。」
"D'abord, mettez le corps au mont Kuno, un an plus tard, construisez une tombe au mont Nikko et déifiez.
Et je pourrai devenir le dieu tutélaire pour le Japon entier."
家康は晩年を過ごした静岡に埋葬して欲しいと願った。
Il a souhaité dormir d'abord une région où il habitait.
天海によって薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られる。
家康は、北極星(l’étoile Polaire)の位置から日本の恒久平和(la paix permanente)を守る為に、石鳥居から陽明門真上に北極星(étoile Polaire)が見える造りにした。
Il observe la paix permanente du Japon de l'étoile Polaire, donc il a fait construire la porte principale juste en dessous de l'Étoile Polaire.
また、江戸城の鬼門封じのために造営した寛永寺のさらに外側北東の方向に当たるのが東照宮。
La direction nord-est dite "porte des démons" et qui peut être néfaste.
東照宮は1617年に2代将軍で家康の三男に当たる秀忠によって廟として造営される。
しかし、規模が小さかった為、1636年に3代将軍で秀忠の次男に当たる家光によって豪華絢爛に造替される。
Toshogu a été construit par Hidetada(troisième fils d'Ieyasu) en 1617.
Mais c'était petit, donc Iemitsu(second fils d'Hidetada) a reconstruit plus grand et plus luxueux.
工期は1年5ヶ月ほどで、454万人を動員し、160億円(16 milliard yens / cent vingt cinq million)も費やしたといわれている。
Ça faisait 1 an et 5 mois, 4 millions personne mobilisés et 16 milliard yens dépensés.
現在、東照宮/二荒山神社/輪王寺を二社一寺と称するが、明治元年の神仏分離以前は日光山あるいは日光三所権現として神仏習合が行われていた為、輪王寺に属する建物が点在している。

1999年に世界文化遺産に登録。
東照宮は度重なる大改修を行なっている。
最近の大改修は、2013年から2019年の間に執り行われた。

天海大僧正(慈眼大師)
天海は比叡山で天台宗の奥義を極めた後、徳川家に仕え、日光山の貫主(=天台宗の最高僧)となる。
Tenkai est devenu un chef de moine dans le mont Nikko en servant Tokugawa en 1613 après avoir appris l'arcane de l'école Tendai.
当時の日光は豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極みにあった。
家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。
詳細は東照宮参照。
天海は、1643年、108歳で大往生した。

石鳥居
1618年奉納。
高さ9m、柱の直径1.2mの明神鳥居。
花崗岩(granit)の石材は福岡県で切り出され、海路と陸路を経て日光まで運ばれた。

五重塔
御鎮座翌年の1618年、九州筑前藩主黒田長政公によって奉納。
石材は、まず九州から船で小山まで運ばれ、その後陸路人力でこの日光まで運ばれた。
1815年火災→1818年再建。

表門
東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されており、仁王門とも呼ばれる。

三神庫
上神庫(かみじんこ)・中神庫(なかじんこ)・下神庫(しもじんこ)を総称して三神庫と言い、中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が1,200人分収められている。
また、上神庫の屋根下には2頭の「想像の象」(狩野探幽下絵)の彫刻が施されている。
奈良の正倉院に代表される校倉造。
百物語揃千人武者行列とは、徳川家康の棺を久能山から日光へ移された時の行列をそのまま再現した祭事で、5月と10月の年2回執り行われる。
La procession reproduire le déplacement du corps d'Ieyasu entre le mont Kuno et Nikko.

神厩(しんきゅう)舎
屋根は前切妻、流造。
妻の飾りと長押上の彫刻等の他は彩色が施されていない境内唯一の素木造の建物。
内部右側は馬を扱う役人の為の詰所で畳敷き。
長押上には子供を悪事から遠ざけるべき事を教える「見ざる言わざる聞かざる」の三猿をはじめ猿の一生をもって人間の生涯を風刺した8面の彫刻が施されている。
東照宮の初代神馬は家康公の関ヶ原の戦い時の乗馬「立黒」で、その後は代々将軍家より奉納された。

そもそも猿は神様の遣いであり、馬の守護神でもある。
三猿が彫刻されている建物は神様の為の馬用の家。

遠くを見ている母猿は、空間としての遠方ではなく、時間としての遠方、すなわち子供の未来を見ている。
その先には実を付けた枇杷(nèfle)と朱色の雲(le nuage vermillon)がある。
「バラ色で実り豊か」な子供の未来を暗示。
Cette sculpture suggére la vie en rose pour les enfants.

幼いうちは純真で周囲の影響を受けやすい。
Les enfants sont innocences et influençable.
「見ざる、言わざる、聞かざる」でお馴染みの三猿は、幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かないという教えとなっている。
Quand on était petit, ne voyez pas de mauvaise chose, ne dites pas de mauvais mot, n'écoutez pas de mauvaise parole.

一匹の座った猿は、孤独に耐えつつも、これからの将来を考えている。
Il est solitude, et il réfléchit son avenir.
やがて立ち上がれば精神的にも自立する。
Il s'assied maintenant, mais il va se lever.

二匹の猿が上を見上げている。
希望を持って上を見上げる青年期。
Ils regardent en haut en caressant un espoir leur adolescence.
右上に青雲が配され、「青雲の志」を抱いた若い猿と解釈できる。
御遺訓にいう「上を見な・身の程を知れ」である。

左側の猿は気から落ちたであろう中央の猿の背に手を当てている。
友達を慰め、励ましている。
Il encourage son ami qui est tombé d'un arbre.

座って腕をお腹の前で交差させ、正面を凝視している猿は結婚の決心を固めた猿。
一方の猿はまだそれに至っていない。
Sa décision est prise.
Mais un autre n'a pas encore fait ça.

左下に逆巻く波、右側の猿は長い手を差し伸べている。
二人で力を合わせれば人生の荒波(la grosse vague)も乗り越えられる。
Si ils s'entraident, ils peuvent surmonter des difficultés dans la vie.

結婚した二人が苦難を乗り越え、子供が生まれ、親となる。
そして最初の場面に戻る。

水屋【重要文化財】
1618年、350,000石の鍋島勝茂より奉納。
花崗岩の水盤を中央に配し、水を使う事を考慮し柱は腐らぬよう花崗岩で作られている。
屋根は唐破風。
正面の台輪の上には立浪の彫刻、虹梁(こうりょう)の上には波に飛龍の透彫が配されており、桃山時代の豪快な彩色の代表的な遺風とされる。

輪蔵
天海版の一切経を収めた建物で経蔵という。
内部には輪蔵と言われる八角形の廻転式大書架がある。

附・鉄燈籠(南蛮鉄燈籠)【重要文化財】
620,000石の仙台藩伊達政宗より奉納。
ポルトガルから鉄を選んで鋳造。
燈籠の竿部分に「藤原朝臣政宗」の銘がある。
境内には石造101基、銅製17基、鉄製2基、石造五重塔1基の121基の燈籠が現存。
陽明門直下に譜代大名、陽明門大石段下に外様大名から寄進された燈籠が配され、陽明門内にあるのは東福門院寄進の1基のみ。

附・銅燈籠(釣燈籠・蓮燈籠・廻転燈籠)【重要文化財】
いずれもオランダからの奉納。
釣燈籠には1636年4月17日奉納と寛永御造営完成の日の銘がある。
蓮燈籠は廻廊の胴羽目下の燭台と共に1640年に奉納。
2000年には日蘭交流400年を記念してアムステルダム国立美術館にて開催された特別展覧会に出品されている。
廻転燈籠の奉納は1643年。
上部の葵紋が全て逆さになっていることから逆紋の廻り燈籠と呼ばれる。

陽明門【国宝】
高さ11m、間口7m、奥行き4.4mの楼門。
508体の彫刻で覆われる。
いつまで見ていても飽きない事から「日暮らしの門」とも呼ばれる。
屋根の上には鬼瓦。
軒下には後水尾天皇自筆の扁額、その両脇に麒麟が配される。
その下に龍と息が二列に並び、さらに下には龍の全身像と龍馬。
2階の廻縁の高欄に「千人唐子の知恵遊び」、その下に唐獅子、次に中国の君子の姿。
通路両側の脇の間には随身が控える。
陽明門に見られる多くの人物像は、泰平の世をもたらした徳川家康公の功績を称え、理想的な政治の在り方を示す。
1617年の家康改葬に合わせて建てられたが、1634年から1636年にかけて家光によって寛永の大造替がなされた。
柱や貫などの軸部材には胡粉を使用。
逆柱(さかさばしら)
陽明門の12本の柱には「グリ紋」と呼ばれる渦巻文様が刻まれているが、門の北面の右から2本目だけその文様が下向きになっており、「魔除けの逆柱」と呼ばれている。
我が国では、完璧な状態には直ぐに魔が差し始めるとされ、立派なものであるほど意図的に文様の向きを変えたり造り残しする。
この下向きの彫刻も陽明門が未完の状態であることを示し、崩壊を防ぐ為に施されたと考えられている。
逆柱は本殿と拝殿にも見られる。

唐門【国宝】
江戸時代の参拝基準となった門で、ここより昇殿出来る者は御目見得(将軍に拝謁できる身分)以上の幕臣や大名に限られていた。
小規模だが構造手法は極めて斬新卓抜で、屋根は四方唐破風、門全体は胡粉摺りで白く塗られ、柱や扉は東南アジアから輸入した紫檀・黒檀・鉄刀木等の寄木細工。
周囲の台輪の上には古代中国の聖賢の故事を題材にした彫刻が飾られており、いずれも1本の木のくり彫り。
柱には唐木の寄木細工で昇龍・降龍の彫刻があり、屋根には名工椎名兵庫作である鰭切れの龍(昼の守り)と恙とも呼ばれる唐獅子(夜の守り)が飾られている。

御本社【国宝】
本殿・石の間・拝殿からなり、東照宮の最も重要な場所。
例祭をはじめ、年中の祭典が斎行される。
また拝殿左右には「将軍着座の間」「法親王着座の間」がある。

神輿舎(しんよしゃ)
屋根は入母屋造、上に千鳥破風をつけ、正面は軒唐破風で下に虎の彫刻が施されている。
3基の神輿が収められおり、中央が徳川家康公、右側は豊臣秀吉公、左側は源頼朝卿の神輿。
春秋大祭(5月18日、10月17日)で御旅所まで渡御するが、前後に千余人が供奉することから百物揃千人武者行列と称される。
内部の鏡天井の金箔地には狩野弥右衛門による天女舞楽の図が描かれている。

眠り猫【国宝】
眠り猫は、日光を浴びて転寝をしていることから日光や平和を連想し、また裏面を雀が飛んでいることから、雀が舞っていても猫が寝ているほどの平和を表現している。
Un chat dort sous le soleil, et des moineaux volent.
Malgré que des moineaux voleront, un chat continue à dormir, ça veut dire la paix.

坂下門【重要文化財】
奥社へ通じる参道の入り口に位置する門。
江戸時代、奥社へは将軍家のみ参拝した。
天井には長寿を表す菊の彫刻が施されており、その下には寿命千年と言われ、現世と幽世とを結ぶとされる鶴の彫刻がある。

廻廊【国宝】
陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られている。
いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色が施されている。

奥社参道
廻廊から奥社に至るまでの石段は207あるが、ここからの長い石段は東照宮の建築の見どころの一つ。
階段は一段毎に一枚石が用いられ、傾斜の部分の石柵は笠も柱も土台も一枚の石をくり抜いて作られている。
寒さの厳しい日光の冬の凍て上がり防止をも考慮したものと思われる。

石狛犬【重要文化財】
松平右衛門大夫正綱・秋元但馬守泰朝よりの寄進。
両者は家康公の遺臣であり、寛永造替の際に造営奉行を務めた事から、特に奉納を許された。
奥社銅神庫【重要文化財】
1654年建造。
外部は銅板で包まれている。
江戸時代には朝廷から贈られた家康公の位記や宣旨、家康公が着用した南蛮胴具足等最も重要な宝物が収蔵されていた。
奥社鳥居【重要文化財】
創建当初は木造だったが後に石造とされ、1650年唐銅製の鳥居となった。
鳥居と共に銅板で包まれている御神号の扁額の文字は、御水尾天皇の筆。

奥社拝殿【重要文化財】
御宝塔に参拝する為の社殿で、将軍のみ昇殿参拝を許された。
建物全体が黒漆で塗られた銅や真鍮で包まれ、毛彫が施されている。
奥社らしい落ち着きを見せた社殿。

奥社宝塔(御墓所)【重要文化財】
御祭神徳川家康公の墓所。
1965年、東照宮350年祭を機に公開。
八角五段の石の基盤上に更に三段を青銅で鋳造し、その上に宝塔を載せている。
当初は木造、その後石造に改められたが、1683年の地震で破損した為、鋳工椎名伊豫(いよ)が製作した現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えられた。
塔の前には鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶からなる三具足が据えられている。
御神木 叶杉(かのうすぎ)
この老杉の洞に祈ると願い事が叶う。
正確な樹齢は不明だが、東照宮建立時には既に存在し、奥社を見守り続けてきたと考えられている。
人々がいつ頃この木に祈り始めたのか、また木の上部がいつ失われたのかは不明。

二荒山神社
二荒山神社は、男体山(二荒山)を御神体山とし、勝道が782年に男体山山頂にお祀したのを始まりとする。
「二荒」を音読みして「ニコウ」、これに「日光」の字を当てることで地名の語源にもなっている。
1617年に現在の位置に移転し、本社としての機能を成す。
男体山山頂に奥宮、中禅寺湖畔に中宮祠、東照宮西奥に本社の三社が鎮座。
境内地は、華厳の滝、いろは坂、日光連山等が含まれ日光国立公園の中枢をなし、広さは3,400haにも及ぶ。
二荒山神社の本社、別宮、神橋等国の重要文化財23棟の建造物が、1999年に東照宮、輪王寺と共に「日光の社寺」として世界遺産登録。
本社境内には多くの御神木があり、縁結びの木、夫婦円満の夫婦杉、家庭円満の親子杉等がある。
神苑では、本殿に一番近い所で参拝ができ、健康や若返りの効用がある二荒霊泉があり、休憩所では霊泉で淹れた抹茶やコーヒー等が楽しめる。
神体山 祭神 関係 本地仏 標高
男体山 大己貴命
おおなむちのみこと
千手観音 2,486m
女峯山 田心姫命
たごりひめのみこと
阿弥陀如来 2,464m
太郎山 味耜高彦根命
あじすきたかひこねのみこと
馬頭観音 2,368m

楼門
木造入母屋造。
男体山頂鎮座1200年祭記念事業1978年建立。

唐銅(からかね)鳥居【重要文化財】
1799年に創建された銅製の鳥居。
上部の中央には「二荒山神社」の額が、その周りには二荒山神社の社紋である三つ巴紋が配置され、両柱の下部には蓮の文様が施されている。
蓮は仏教において観音菩薩の乗る花と考えられており、江戸時代の神仏習合の様子を物語っている。

夫婦杉
夫婦円満の御神木。
御祭神の御神徳の表れと言われている杉。

親子杉
家庭円満の御神木。
御祭神親子三神に因み根を一つにした三本杉。

縁結びの御神木
杉に楢のやどり木。
すぎ(き)なら一緒に!
好きならばと一緒になった。

化灯籠
1292年に造られた銅灯籠。
火を灯すと怪しげな姿に化けたと言われ、武士が刀で斬りつけた跡が無数に残されている。


憾満ヶ淵
男体山噴火時の溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地。
川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海(こうかい)大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ヶ淵と名付けた。
1654年、晃海大僧正はこの地に慈雲寺や霊庇閣、不動明王の大石像などを建立し、往時は参詣や行楽の人々で賑わった。
1689年、松尾芭蕉も奥の細道行脚の途中に立ち寄った。
大谷川の対岸にある巨石の上には、かつて高さ2mの不動明王石像が置かれていたが、1902年9月の洪水で流失。
その台座である巨石には「カンマン」の梵字が彫られている。
この文字は日光山修学院学頭で養源院住職であった山順僧正が書いた。
「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来を考えると「かんまん」と澄んで読む方が正しい。

慈雲寺
1654年に、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海を祀ったお堂。
当時の建物は1902年9月の洪水で流失し、現在の本堂は1973年に復元。
毎年7月14日に輪王寺により盂蘭盆会の法要が営まれる。
山門手前に田母沢御用邸付近を散策中に大正天皇が詠んだ短歌
「衣手も しぶきにぬれて 大谷川 月夜涼しく 岸づたひせり」
を刻んだ碑がある。
秋の紅葉は奥日光よりも時期が遅い。

霊庇閣
1654年、慈雲寺創建の時、晃海大僧正が建立した四阿(あずまや)造りの護摩壇で、対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈る護摩供養を行った場所。
この高さ2mの不動明王像は、周辺の他の石像や建物などとともに1902年9月の大洪水により流失したが、その台座となっていた対岸の巨石には「カンマン」の梵字が今も見ることができる。
現在の「霊底閣」は1971年に輪王寺よって復元。

並び地蔵(化け地蔵)
慈眼大師天海の弟子100名が「過古万霊、自己善提」の為に寄進したもので、列座の奥には親地蔵が置かれていた。
霊庇閣に一番近い、やや大きめの石地蔵は「カンマン」の梵学を書いた山順僧正が奉納したのもの。
1902年9月の大洪水で、親地蔵と他の地蔵のいくつかが流され、100体あったが現在は70体ほど。
参詣者がこの地蔵の数を数えてみると、そのつど数が違うというところから「化け地蔵」とも呼ばれるようになった。
逍遥園
輪王寺門跡の庭園として江戸時代初期に作庭。
小堀遠州の作で、完成は寛永年間(1624-44)。
その後、度々改修され、1815年の大改造で一新。
更に明治時代に一部改作され、現在の形に至る。
1876年6月、明治天皇の東北御巡幸の際に、木戸孝允らを伴いこの逍遥園にあった「輪王寺本坊」に3泊され、二社一寺をはじめ中禅寺方面まで視察した。
ちょうど、神仏分離の混乱の時で「旧観を失うなかれ」という有名な言葉を残した。
その3年後にはアメリカ大統領となったグラント将軍も泊り、庭園を心ゆくまで観賞した。
3,200㎡で東西に長く開け、東から御霊殿、聖蹟之間、宝物殿、紫雲閣と、どの位置からも観賞できる「池泉回遊式」庭園。
庭園全体の造りは、南西部を築山として、南方の鳴虫山と西方の男体山、北方の女峰山、赤薙山の山々を借景にしており、春夏秋冬は言うに及ばず朝夕の変化もまた素晴らしい。
池割は東西に長く、「竜地」様式の池を掘り、中島を中央に、これに橋を架け、東に竜組を作って水を落とし、西南に出水口を作り、池の東を細長く、西は広く、紫雲閣付近から鑑賞の形式が取られている。
池泉を細くしたのは、北側から鑑賞が出来るようにしたためで、この池泉を回遊するように一本道を作って巡らしている。
園内の石組は、すべて日光付近の山石及び川石で多くの種類があり、五尺八寸の蓬莱石、その他の巨石などは江戸初期の手法と伝えられている。
庭木は、イチイ、キャラ、カエデ、ツゲ、アカマツ、その他30数種が入り交じって植えられている。
また、この庭は関東サツキ発祥の地でもあり、サツキ、ツツジの類も多い。
サツキ、大盃(おおさかづき)を主にした刈り込みは、江戸中期の作風で、サツキの「晃山」「日光」「輪王鶴」などの原種はこの逍遥園が発祥。

逍遥園には数多くの品種の紅葉がある。
イロハもみじ、千染(ちしお)、瓜膚楓(うりはだかえで)、野村楓、ヤマモミヂ、一行院、出猩々(でしょうじょう)等など。
日光山全体の紅葉コレクションを一園に会せしめたと言っても過言ではない。


田母沢御用邸記念公園
日光田母沢御用邸は1899年に大正天皇(当時皇太子)の御静養の為造営された別荘。
大正天皇崩御後は昭和天皇の別荘となり、今上天皇が皇太子の頃に疎開先le refugeとなるなど、天皇家三代にわたり利用されていた。
1947年に廃用となり、同時に一般公開されるようになる。
元々は、地元の実業家・小林家の別邸だった建物に旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築し、大正天皇即位後の1918年に大規模な改築が行われ、1921年に現在の姿に至りる。
よって、江戸・明治・大正時代の最高峰建築技術や様式を見ることが出来る。
部屋数は106室
敷地面積は約40,000m²
床面積は約4,500m²


華厳の滝
発見者は勝道上人。
仏教経典のひとつ「華厳経」から名付けられた。
名前の由来は2つ。
  • 大谷川左岸にあった華厳寺説。
    Il y avait un temple qui s'appelle Kegon.
  • 水の反射で大躑躅が華麗に滝を飾っていた説
    Le reflet de la lumière de la rivière.
勝道が807年の旱魃(la sécheresse)の折、雨乞い(prier le ciel pour demander la pluie)をして雨を降らせた。
その場所が華厳滝。
男体山の噴火により堰き止められた中禅寺湖からの地表を流れる唯一の出口大谷川(だいやがわ)にある滝。
Cascade Kegon coule de la rivière Daïya.
C'est une seule rivière qu'un lac Chuzenji.
Le lac Chuzenji est formé par l'éruption du mont Nantai.

日本三名瀑(那智、袋田、華厳)のひとつ。
落差97m、水量平均3t/s、多いときは55t/sになる。
下流に水力発電所(centrale hydraulique)がある。

1903年、当時高校生だった藤村操が投身自殺した。享年16歳。
原因はLe pessimismeか、L'amour déçuとされているが真偽は不明。
Personne ne sait que c'est vrai ou faux.
Il avait des soucis philosophiques.
その後数年間、自殺者が相次ぎ、自殺の名所となった。


中禅寺湖
日光国立公園内にある日本で25番目の面積規模を有する湖。
面積11.9km²
周囲25km
最大水深163m
水面の標高1,269m
2万年前(il y a vingt milles ans)に男体山の噴火で出来た堰止湖(lac endigué par l’éruption)。

日光山を開いた勝道上人によって発見された。
元々は神仏への信仰に基づく修行の場として知られており、湖岸から100m離れた上野島には、勝道上人の遺骨の一部が納められている。
また、湖の南側には八丁出島と呼ばれる細長く突き出した半島があり、薬師如来を祀っていた薬師堂跡がある。
日本で唯一レイクトラウトが繁殖しており、スポーツフィッシングの対象となっている。


いろは坂
ヘアピンカーブが48箇所あることから「いろは坂」と呼ばれる。
Il y a 48 virages très raides.
標高差は440mにもなる。
通常は20分ほどで登れる道路だが、紅葉などのトップシーズンには渋滞で2時間以上かかることもある。