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滋賀県

滋賀県 大津市 彦根市
面積 4,000㎢
1/6は琵琶湖(670㎢)
460㎢ 200㎢
人口 1,400,000人 340,000人 111,000人

目次


彦根

彦根城
1600年、井伊直政が関ヶ原の戦いに徳川四天王(※)の1人として功をたて、石田三成の居城佐和山城を与えられ、1601年高崎城から佐和山城へ移った。
その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死。
1603年、長男直継が父の遺志を継ぎ彦根城築城に着手。
時の将軍家康の援助もあり、1622年完成。
城地面積25ha周囲4km高さ50m
1951年…彦根城天守閣、天秤櫓・太鼓門槽・西の丸三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定。
1952年…天守が国宝に指定。
1956年…彦根城一帯を特別史跡に指定。
1963年…馬屋を重要文化財に指定。
※徳川四天王
酒井忠次
家康より年長で、三河時代から家臣団のまとめ役として支えた最古参。
長篠の戦いでの武田勝頼に対する活躍が有名。
本多忠勝
「東国無双」「戦国最強」と称された猛将。
生涯57度の合戦で傷一つ負わなかった。
名槍「蜻蛉切」
榊原康政
若くして家康に仕え、軍事・行政の両面で手腕を発揮した知勇兼備の武将。
家康の参謀として多くの戦や交渉で活躍。
井伊直政
武田家の旧臣を率いた「井伊の赤備え」を編成し、関ヶ原でも先鋒として大功を立てた。

二の丸佐和口多聞櫓【重要文化財】
佐和口は、中堀に開く4つの口の1つで、「いろは松」に沿った登城道の正面に位置。
かつて中堀に接して高麗門があり、その内側を鉤の手に曲げて櫓門が築かれた。
城門形式最強の桝形で重厚な構え。

馬屋【重要文化財】
藩主の馬を常備した建物。
この建物はL字形をしており、佐和口門櫓に接する東側に畳敷の小部屋、対する西側近くに門がある他は、全て馬立場と馬繋場。
21頭の馬を収容出来た大規模馬屋。

京橋口門と雁木
中堀に面する4つの城門の1つ。
内側に設けられた桝形には、かつて中堀に接して高麗門(絵図では「冠(木)御門」と表記)があり、その内側を鉤の手に曲げて櫓門が築かれていた。
古写真を見ると、櫓門は門の上に2階2重の櫓が乗り、両側に多聞櫓が伸びている。
門の形式としては最強の桝形。
この多聞櫓の内側には、長大な石の階段が造られている。
これを雁木と言う。
雁木は、多くの城兵が一度に多聞櫓を駆け上がれるように築いたもの。

大手門橋塵取石垣の調査と修復
修理前は大手門橋の城内側の橋台から内堀水面に向かって緩やかに下がる斜面となっていた。
発掘調者によって、舟着場の様な長方形の空間と石階段を検出。
長方形の空間は全面に川原石が敷き詰められていた。
一部でその下部を確認したところ、0.1m前後の深さで彦根(金亀)山を形成する地山を検出。
また、それを掘り込んで大手枡形虎口に伴う櫓台石垣の基底石(根岩)を設置し、その際に前面に石を敷き詰めて石垣の安定を図る様な仕事がされていた。
長方形の空間を形成する腰巻石垣の裏込めは、その築石背面から1mの幅を持っており、しっかりとした構造の石垣である事がわかった。
1656年の軍学書によると、この施設は「塵取」と言う。
「塵取」は、堀にたまったゴミや塵を取り集める為に、城内から堀に降りる口で、土居や石垣が途切れた空間に石階段などを造って、水面へ降りられる様にする施設
城外から侵入されやすいという欠点があり、主に本丸内部に設けて最外部には造らない。
ここに舟を置いて、密かに外部と連絡する場合にも利用できる。

南堀切石塁石垣の調査と修復
落とし積みの傾向のある石垣であり、築城後に増設あるいは修理された石垣。
解体調査の結果、裏込め内の栗石量は少なく、築岩に背面土の土圧がかかりやすい構造である事がわかり、更に江戸時代の瓦が出土した事から、築城当初の石垣ではない。
江戸時代の石垣修復と文化財石垣としての修復
江戸時代の石垣修復では、壊れた部分のみを最小の範囲で修復。
結果、石垣の一面で異なる石材加工がなされた築岩が混在し、また異なる積み方がなされたという特徴がある。
文化財保護法に則り、現代の解体修復時には十分な調査の上で、江戸時代の石垣の姿に近づける為の修復工程が必須。
その為、周囲と違和感がなく、一見何処が修理されたのか分からない。
現在は、文化財保護の観点で文化庁長官の許可のもとで修復が行われるが、江戸時代は軍事施設の管理という観点で幕府の許可が必要だった。

佐和山城からの移築石垣の発見
鐘の丸虎口石垣は、大半が石垣構築当初の遺構。
その際に、調査区壁中央上部に人頭大の石がまとまって出土した事や、その右側に栗石が多く、左側はほぼ土のみであるという状況が確認できた。
この右側の土層堆積は周囲の石垣の状況から、解体石垣の背面に築かれた鐘の丸西面石垣の断面と考えられる。
鐘の丸西面石垣立面は、湖東流紋岩(les roches volcaniques locale)とチャート(la chaille)=堆積岩(les roches sédimentaires)の2種類の石材で築かれている特殊な石垣。
これは彦根城跡の石垣のほぼ全てが、湖東流紋岩の築岩で築かれたものと言われていた事と大きく異なる。
滋賀県内において、複数かつ同質の石材で築かれた石垣を持つ城跡は、佐和山城のみ。
佐和山・彦根山共にチャートの山だが、青色系のチャートは佐和山城跡でのみ確認。
以上から、鐘の丸西面石垣の築石は佐和山城より持ち込まれた石材で再構築された模様。
なお、移築石垣付近には、墓石部材を築石に利用した石垣もあり、築城に当たって真っ先に古材(転用材)を利用して築城開始→その後、新たに新材である湖東流紋岩を調達して、全山総石垣の城郭完成。

鐘の丸虎口石垣の調査と修復
鐘の丸は彦根城の中で最も早く完成した曲輪で、その正面玄関がこの虎口。
往時は、城門と番所があり、石垣の上は多聞櫓と塀で厳重に防御されていた。
攻め手に威圧の意味を込めて、城門手前の石垣に二つの「鏡石」が配置された。
しかし、鏡石から上部が膨らんだ状態が長く続き、崩壊の危険性があった為に修復。
遺構確認調査では、石垣の上部に建っていた「二階御多間槽」と「御多聞槽」の二棟分の基礎が良好に残っている事が確認できた。
石垣の解体調査では、石垣に向かって左側の一部が江戸時代の中で積み直され、城門や番所が改修されていた事が分かる。
一方、向かって右側や根石については、石垣背面の裏込め土に江戸時代の瓦の破片などのゴミが混入していない事が確認でき、築城当時の石垣である事が確実となった。
解体修理の原因とも言える鏡石は背面に奥行が全くない平らな石を縦に据えていた事が判明。
石垣の解体・修復方法は、解体対象の築石に全て番付けして丁寧に解体し、同時に築石裏込めを発掘調査により解体し、石垣勾配が正常になる形で全ての石を元あった配置に戻している。
石垣の上で検出された多聞櫓の基礎石も元の位置に戻して再び地中で保護している。

  • 曲輪…防御された平坦地
  • 虎口(こぐち)…防御された出入り口
  • 根石…石垣の一番下の石
  • 鏡石…虎口にある象徴的な石

鐘の丸
築城当初、鐘楼が当地に存在した為「鐘の丸」と称すが、鐘の音が城下北方に届かなかった為、太鼓丸の現在地に移設した。
この鐘の丸には「大広間」や「御守殿」等の建物が存在したが、大広間は1732年に解体されて江戸へ運ばれ、彦根藩江戸屋敷の広間に転用された。

オオトックリイチゴ
バラ科のキイチゴ属(la ronce)の一種で、彦根城以外には知られていない彦根城固有の植物。
自生の「ナワシロイチゴ」と中国・朝鮮半島原産の「トックリイチゴ」が自然交配(la race métissée naturelle)して生まれた雑種。
6月…開花し、紅紫色の5枚の小さな花弁を付ける。
7月…淡紅色に熟した果実が実る。
日本植物学の父・牧野富太郎が1894年に発見。
その後、イチョウの精子発見者として世界的に知られる平瀬作五郎が牧野の依頼で標本を作製し、牧野が学会誌に発表。
学名には牧野と平瀬の名が配されている。

天秤櫓【重要文化財】
この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したもので、天秤(la balance)形をしている為、天秤櫓と呼称。
この形式は、我が国城郭の内彦根城唯一つ
1603~06年にかけて建立され、長浜城の大手門を移建。
1706年、1784年、1854年、1892年にそれぞれ修理が行われている。
この内、1854年の修理が最大規模。
西半分は完全に改造され、石垣は新式の落とし積み。
東半分は古式の牛蒡(ごぼう)積み。
鐘の丸から渡された廊下橋は、往時両側に壁があり、屋根を持った橋で、中の人の動きが外から見えない構造。
天秤櫓の壁
天櫓の壁は、防火や防弾の為の厚い土壁。
土壁は、竹を縦横に組んだ骨組みに藁縄を絡め、それに荒壁→中塗り→白漆喰の順に塗り重ねている。
建物外面は、柱を土壁で完全に塗り込める「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」。
また、敵が攻め寄せる外側は、防弾の効果を高める為に壁を二重に造って一段と厚くした。
その厚さは30cm超。
この様な厚さは、防弾が必要な壁面の中位より下で、上方は通常の土壁。
天秤櫓のどちら側が二重壁になっているか→二重壁のある側が、深い「大堀切」に面した外側になっている。

太鼓丸東石塁の調査と修復
太鼓丸は本丸と鐘の丸に挟まれた緩やかな斜面に立地。
南を天秤櫓、東西は土塁の両側面に石垣を設けた石塁で防御され、その上には塀があった。
斜面を石塁で囲んで曲輪化した防御力の高い空間だった。
しかし、東石塁上は長らく大きな樹木が繁茂しており、その根の影響や樹木そのものが風などで揺す振られる事により、石塁を形成していた石垣に大きな被害を与え、かなりの箇所で崩落や膨らみが発生していた。
そこで、毀損拡大を防ぐ為に、文化財修理として修復工事を実施。
発掘調査は、5区に分割して行われた。
2~5区は、昭和初期(国史跡になる前)の修理。
1区の石垣の根石に関しては太鼓丸普請時のものが残っていたが、その上部に関しては江戸時代半ば以降の修理。

時報鐘及び聴鐘庵
12代藩主井伊直亮(なおあき)が1844年に鋳造した鐘で、当初鐘の丸にあった鐘の音が城下の北の隅に届かなかった為、現在地に移した。
現在は6時、9時、正午、15時、18時と1日5回撞く。
大老井伊直弼は禅の精神と相通ずる茶道に惹かれ、自らも「宗観(むねみ)」と号し、修行を続けた。
大老の著「茶の湯一会集」に書かれている「一期一会」の茶道精神は有名。
この精神をしのび、時報鐘の管理棟を改造した聴鐘庵で薄茶の接待を実施。
日本の音風景百選
100 paysages sonores au Japon
彦根城の時報鐘と虫の音
虫や渓流、鐘や祭など地域で愛されている音の聞こえる風景を残そうと、環境庁が1996年6月5日「日本の音風景百選」を決め、彦根市からは「彦根城の時報鐘と虫の音」が選ばれた。
彦根城内から3時間毎に時を告げる時報鐘の音、城山の夏の夕暮れ時のヒグラシの蝉時雨(la cigale)、玄宮園での鈴虫(le grillon)、松虫の鳴き声、将来に残したい音風景。

太鼓門櫓及び続櫓【重要文化財】
本丸の表口を固める櫓門。
築城時に他の城から移築された建物。
櫓門としては珍しく、その背面が開放されて高欄付の廊下となっている。

門扉
門扉は肘壺と呼ばれる金具を用いて門に取り付けられる。
肘壺は、肘金と壺金から成り、扉には壺金を側面から縦格子に差し込み、扉の表面に八双と呼ばれる金物を取り付けて、その上から目釘を打ち込んで固定。
一方、肘金は鏡柱に背面から差し込み、側面から目釘を打って留め、更に突き出た先端は乳金物と呼ばれる饅頭形の金物で隠される。
鏡柱は通常の角柱と異なり、門の正面側を長辺とする長方形断面となっているが、これは肘金を買通させる為である。
そして、肘金の芯棒を壺金の穴に落とし込み、扉を吊る。
肘壺は扉一枚につき2~3箇所取り付けられ、この回転により扉の開閉がなされる。
門の戸締りには閂を使用。
閂は閂鎹(かすがい)という金物を用いて扉の内側で支えられ、鎹の先端は肘金同様乳金物を打って隠す。
門扉の中央に打たれているのがそれ。
また、扉や鏡柱の表面に短冊状の鉄板を鋲で隙間なく打ち付ける。
その様な城門は鉄門(くろがねもん)と呼ばれ、名古屋城本丸表二の門、姫路城(に)の門、隙間をあけて鉄板を張った筋鉄門(すじかねもん)は江戸城外桜田門、福山城の本丸、鉄板の代わりに銅板(あかねもん)を張った銅門は二条城本丸櫓門、高知城追手門等もあり、いずれも当時の大砲弾の直撃に耐えられたという。

彦根城天守【国宝】
彦根城と城下町の建設は、1604年に始まり、20年近い歳月を経て完成。
現在の本丸には天守の建物しか残っていないが、かつては藩主の居館「御広間」や「宝蔵」、そして「着見(つきみ)櫓」等も建っていた。
天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成。
小規模だが、屋根「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配し、2階と3階には「花頭窓」、3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせる等外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せる。
天守の建物構造は、通し柱を用いず、各階毎に積み上げていく方式を採り、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式を残している。
1957~60年の間行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成は1607年頃であると判明。
また、建築材調査の結果、元々5階4重の旧天守を移築した事も分かった。
文献によると、彦根城の天守が大津城の天守を移築した可能性が浮上。
戦争と共に発達した城だが、彦根城は一度も戦争を経験する事なく平和な江戸時代を迎えた。
江戸時代には藩主が天守を訪れる事も少なく、天守には歴代藩主の甲冑等が収納されていた。
江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担った。

狭間
矢狭間…弓を射る縦長の長方形
鉄砲狭間…火縄銃を放つ三角形(鎬狭間)や正方形に近い方形(箱狭間)
いずれも板枠を壁に埋め込んで製作するが、彦根城天守では外面を壁土で塗り塞いで敵を欺く「隠し狭間」となっている。
各狭間の高さは、矢狭間が弓の丈の関係で比較的高い位置に切られているのに対して、鉄砲狭間は火縄銃を座ったり伏せた姿勢で射撃する為、概して低い位置に切っている。
また、各狭間の間隔は、1間(2m)に1つずつ配置する例が多いが、彦根城天守ではより密に半間(1m)に1つとしている。

井伊直弼公(1815~1860)
幕末の彦根藩主。
幕府の大老となり、1858年日米修好通商条約に調印し、開国。
しかし、反対派を厳しく処罰した為に、1860年江戸城桜田門外で暗殺。

破風の間
彦根城天守屋根には多様な破風が設けられているのが特徴の一つ。
これらの破風内には、破風の間という小部屋を設けているものがある。
破風の間には鉄砲狭間が切ってあり、防御の為の小空間となり、その下屋根の軒近くまで突き出している為、屋根面による死角が少なく、防御に有効。

お城の石段
彦根城天守へ登る山道は4箇所あるが、その石段は非常に登りづらい。
元々城への石段は、万一敵が攻め入った場合、歩調が乱れ一息で登れないよう、意図的に不規則に造られている。
寺の屋根の様に、最初は緩やかな登りが、登るにつれて斜度が急になり登りにくくなったり、踏み幅や踏み高を微妙に違わせ一定にせず、敵に対しては足元に注意を向けながら登らせ、上から攻撃しやすくしている。

登り石垣
彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が5箇所に築かれている。
登り石垣は、文字通り山の斜面を登る様に築かれた石垣。
斜面をよく見ると、高さ1m程の石垣が鐘の丸に向かって伸びる。
石垣向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪堀」で、登り石垣と共に斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれた。
かつてこの石垣の上には、更に瓦塀が乗っていた。
登り石垣は、朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」に於いて顕著に見られる城郭遺構。
日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)等限られた城にしか見ることが出来ない。

彦根城博物館
表御殿
表御殿は、彦根藩の藩庁であった所で、藩の政務や対面、儀式に使われた公的空間(表向き)と、藩主が日常生活を送った私的空間(奥向き)で構成される。
この表御殿は、明治維新後に取り壊されたが、1987年に復示し、現在は彦根城博物館として開館。
復元した表御殿の内、1800年に建てられた能舞台(市指定文化財)は当時の建物で、藩主が日常生活を送った奥向きは当時の姿さながらに木造で復元。

能面切型 童子 友閑打
切型とは、面の写しを作る為の道具。
面の正中線を象った型と、これと垂直に交わる複数箇所の形を象った型を組み合わせて、元となる面の造形を再現する。
これは、井伊家に伝来した複数の切型の1つで、「童子友閑打」とある事から、友閑満庸(ゆうかんみつやす)の童子の型と分かる。
これ以外に是関の面の型も伝わっており、この様にして「天下一」の面の型が受け継がれていた事が分かる。

1.井伊直政と彦根藩の興り
江戸時代を通じて彦根藩主を務めた井伊家は、彦根城を本拠に、近江国の東部から北部の一帯を治めた大名。
戦国時代までは遠江国(現静岡県西部)の一領主だった。
滅亡の寸前にまで追い込まれていたが、1575年、後に初代藩主となる井伊置設(1561~1602)が徳川家康に召し抱えられ、目覚ましい出世を遂げる。
家康の命により、武田旧臣の多くを配下とした直政は、「井伊の赤備え」を率いて家康の天下獲りに大きく貢献し、井伊家は徳川幕府を支える有力な大名家となる。
直政は、関ヶ原の戦いでも大きな活躍をし、1601年、その褒美として敵将石田三成の居城であった佐和山城と、180,000石の領地を与えられた。
その後、新たに城を築く事を計画するが、間も無く亡くなり、築城は息子の直継、直孝へと引き継がれる。
この後、完成したのが、徳川氏による西国支配の重要拠点、彦根城。
2.井伊直孝と彦根藩の形成
2代直孝(1590~1659)は、1614年から翌年にわたる大坂の陣において、徳川方屈指の活躍を見せ、幕府内での井伊家の地位を揺るぎ無いものとした。
その卓越した武力を基盤に、幕府の中で大きな力を発揮し、秀忠・家光・家綱の3代にわたる将軍を補佐。
また、この間に井伊家領地は3度の加増を経て300,000石となり、加えて幕府から50,000俵の御城米を預けられた。
政庁かつ藩主の住居である彦根城表御殿や城下町の建設が進められたのもこの時期。
彦根の城下町は、江戸時代前期には20,000人の武士と16,000人を超す町人等が暮らしており、近畿圏で有数の規模を有した。
3.井伊家の地位と役割
井伊家当主は、初代直政と2代直孝が築いた地位を継承し、将軍権力を幕府中枢から支えた。
井伊家は、諸大名の中でも指折りの高い格式を有し、江戸城内では将軍の近くに詰め、また将軍から天皇へ遣わされる「京都上使」を務めた。
他にも、将軍の若君の元服式では烏帽子親を務め、家康の遠忌法会では将軍の名代として日光東照営に参詣する等、井伊家固有の特別な役割も務めた。
また、将軍権力が不安定な時に置かれる大老職にも就任している。

甲冑
彦根藩井伊家の軍団は、大将から士卒に至るまで、甲冑や旗指物を赤で統一し、「井伊の赤備え」と称された。
井伊の赤備えは、1582年、徳川家康の命によって成立した。
家康は、若き井伊直政(1561~1602)を強力な大将とすべく、甲斐武田氏の遺臣を中心とする117名を配下に付け、軍事力の増強を図った。
その際、勇猛で知られた武田の飯富虎昌(おぶとらまさ)らの赤備えにあやかり、軍団を赤で統一する様に命じた。
室町時代末期から安土桃山時代は、長槍や鉄砲等を用いた集団戦へと戦術が大きく変化した時期。
これに対応すべく、動きやすさや防御力を重視した当世具足という甲冑の形式が生まれた。
この頃に活躍した初代直政、2代直孝の甲冑はこの形式で作られている。
以後、井伊家当主の甲冑は代々、家の基礎を築いた彼らの甲冑を手本として調えられた。


玄宮園【名勝】
1678年に彦根藩4代藩主井伊直興(なおおき)が整備。
1813年に同藩11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され今日に近い形になる。
玄宮園は魚躍沼(ぎょやくしょう)と呼ばれる広い池を中心に構成。
東部から北部に築山を配し、池には4つの中島がある。
畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。
「玄宮園」の名は唐代玄宗皇帝の離宮庭園を参考にした事に由来。
玄宮園は近江八景に因み、中の亭屋を「八景亭」と呼ぶ。
八景亭は1868年、彦根の紙質商、富商の安居喜八が幕府より払い下げを受けたが、1896年、再び井伊家が買い戻し、井伊家の所有のもとで料理旅館業に使用させた。
1897年、楽々園八景亭の営業をまかされていた、楽々園八景亭取締役阿知波勘次郎(湖東地方の富豪)らの申し入れにより、町が引き受けることになり、1899年から町が一括して管理することになった。
1934年から料理旅館として、営業を行なっていたが2017年11月30日廃業。

槻(けやき)御殿
第4代藩主井伊直興が1677年に着手し、1679年に完成したもので、下屋敷として築造され、木材は規(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。
大老井伊直弼は、1815年10月29日ここで生まれた。
これらの建物は数棟の東屋より成り、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時の面影を留めている。
第12代藩主井伊直亮が1804~17年に楽々之間を増築して以来、槻御殿という正式名よりは寧ろ楽々園の名の方が有名になった。
楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意から取ったと言われ、民の楽を楽しむという仁政の意を持つ。

鳳翔台
鳳凰が大空に向かって舞い上がる場所、という意味で名付けられた高台。
「鳳翔台」の名は、江戸時代に描かれた「玄宮園図」に玄宮園十勝(名勝10箇所)の1つとして描かれている。
絵図には高台の下に華やかに飾った舟も描かれており、時には舟遊びに興じる事もあった。

八景亭(臨池閣)
庭園を見渡す好所に建てられた数寄屋建築。
江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名は無く、当時は「臨池閣」と呼んでいた。
13代藩主井伊直弼は、彦根に立ち寄った幕府の数寄屋坊主に対して、茶席を表御殿から玄宮園へと広げ、この臨池閣や鳳翔台などを用いてもてなしている。

復元水田(神田)
玄宮園には、水田が設けられていた。
なぜ大名庭園に水田があるのか。
寧ろ全国のほとんどの大名庭園に水田や畑は存在した。
特に岡山藩池田家の「後楽園」、水戸家の江戸下屋敷の「小石川後楽園」、広島藩浅野家の「縮景園」等が代表的なもの。
これらの庭園では、藩主自らが領内の五穀豊穣を祈って、田植え神事が行われていた記録が残っている。
玄宮園でも神事を行っていた記録がある。
藩主自らが家来の前で田植え神事を仕切る事は、藩主が領内の事をしっかり考えているのだというアピールであり、当時の大名庭園が遊びの空間だけではなく政治的な演出空間であったことを良く示している。

花の生涯記念碑
世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた小説「花の生涯」(舟橋聖ー)が発表され、人々に深い感銘を与え、映画・演劇として、また、特にNHKテレビドラマを通じて世の絶賛を博し、「花の生涯」ブームをもたらした。
この事を記念して1964年10月25日に建立。
中央の四角い石を大老井伊直弼にみなし、左右の低い石を長野主膳と村山たか女とし、キラキラと輝く砂は雪を表し、波乱に満ちた「花の生涯」を物語る。

遠城謙道(おんじょうけんどう)
遠城謙道は、旧彦根藩士で通称遠城平右衛門といい、1823年に産根で生まれた。
15歳で鉄砲隊に入ったが、藩医「堀田道策」に医術を学んだのを始め、儒学や画も学び、特に禅の修業を積んだ事で武士の魂を磨いた。
桜田門外の変における、大老井伊直弼公の横死の後、非憤の余り主君の旧恩に報じようと同志と諜り老中に抗弁するも、果たす事が出来なかった。
追い腹は犬死と判断し、僧となり墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清涼寺俊竜和尚の元で仏門に入り、名を「謙道」と改めた。
1865年、妻と6人の子供を残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺、豪徳寺に移り、直弼公の墓側に庵を建て終生掃墓、読経をし、霊を慰めること実に37年に及んだ。
「開国始末」の著書、島田三郎氏は清節堅操優に、士人の典型また僧侶の模範と謙道翁の至誠至忠が讃されている、